
肩甲骨のことを英語では天使の羽というみたいです。
肩甲骨の周りの筋肉や筋は肩や腕とつながっていて、ストレスがたまると痛むことがありますね。
私は夏に追突事故でむち打ち症になってからまだ回復してないのですが、先日あんまりきつかったから、宴会の席で、気功の達人に手当てしていただいたり、アレクサンダーテクニックの先生にその場で緩める方法を教えてもらったりしました。
故障がなければまったくそういうことに縁がない私ですから、そういう意味では事故も痛みも大変ありがたかったと思っています。
で、実際にやっていただいていろいろな気づきがありました。
何をしているかというと、物理的なことではなく、ただの意識の働きだけですね。
治れ、とか痛みがなくなれ、とか回復して、とかではなく、ただそこを意識するってだけのことで。
普段意識していない、自分の体の骨、組織、細胞までしっかり見つめてみる。
見つめたとたんに、面白いことに意識の中では骨がどんどん伸びていき、組織が広がっていく感じがするんですね。
いつか踊っていたときに、頭が宇宙の果てに、足は地球の中心まで伸びて行ったことがありましたが、あれが部分的におきているという感じでした。
そして面白いことに、肩甲骨からは小さくたたまれていた天使の羽がふんわり広がって
空のかなたまで飛んでいくイメージが広がります。同時に物理的身体もくつろいで緩やかに酸素がみなぎり老廃物や痛みが流れ去っていきます。このとき、微細な振動を体の中に感じることがあり、実際に調整するために動き出すこともあります。オステオパシーでしょうか。そしてうっとりと気持ちよくなっていきます。
全部、自分自身のなかにある自然治癒力の働きでしょう。
それがただ、そこにあることを意識するだけで起きてくるというのは面白いことです。病原菌をやっつけようなどという発想はまったく必要ないみたいです。むしろいとおしく抱きしめるだけでよいみたいです。敵ではなく、ありかを知らせてくれているだけの存在みたいですから。
天使も地上にいるといろいろな重荷を自然に担いでしまっているようですね。
肩甲骨を意識してみましょう。
小さくたたまれた干からびたようになっているあなたの羽が、少しづつ広がって羽ばたいていきますように。
注意:無理にしないでくださいね。
広がれなんて念じないでくださいね。
羽が破れちゃうかもしれませんから。
うっとりしてたらいいだけです。
ストレスから病気になったという話はよく耳にする。
もしそれが本当の話なら、反ストレス状態、つまり幸福なウェルビーイングな状態では病気が治るってことも成り立つはずだ。
ストレス障害はたくさん研究されているにもかかわらず、自然治癒に関しては科学的に解明できない不思議現象として科学の枠を超えていると言うのはおかしな話だ。
ストレス性の障害メカニズムがこれだけわかっているんだから、真逆をしたら治るっていう単純な発想になぜならないんだろう。
ただ、病気の状態をいくら研究しても、病気についてはわかるけど、健康についてはわからない。ここからがこれからのポジティブ医学の出番だ。
本当に健康な人問というモデルを見つけるのは至難の技だからなあ。
でも、いる。
いるし、そばにいるだけで影響を受けて元気にもなる。
確かに自分の意識のもち方を超えた何か、それこそスピリチュアルなものが介在している可能性はあるけど、なおる可能性は無限だ。
ストレスで病気になった、そうですか!
良かったですね、喜びあふれて安心したら治るんですから!
そんな気持ちになれないですって?
治ったとこを想像してみてください。
うれしいでしょう?
そしたら何をしますか?
誰と喜びますか?
感謝と喜びをどうやって表していきますか?
たぶんお掃除してお花なんか飾ったりしたくなるでしょうね。
美容院にいって新しい髪型にしてみますか?
したかったお稽古ごとを始めますか?
想像するだけで世界はあなたの味方になってくる。
想像して、そして実際にやってみたらもっとずっと効果が早いこともわかるだろう。
あるいは、たとえ病気が治らなくても感謝があふれる状態になったら、それ以上何を望みますか?
それこそがスピリチュアルヒーリング、つまりスピリチュアルなレベルでの癒し。
つまり、身体の病気が治る治らないは別のお話。
霊的自己責任論て、いったいどんな根拠があって主張してるのかと思う。
つまり,自分がここに存在しているのは自分が選んでやってきたのだ。
親や環境や運命・障害なども自分が選択した結果なのだって話。
反論の根拠は何よって聞かれたら、確かにこっちだって、直感的に変だと思うとしか言えないんだけど。
直感対直感では議論にならないから、もしそうだと仮定してみた場合に、人が幸せになるかどうかという,プラグマティックな視点で考えてみようか。
障害は自分で選んできたんだって言われて幸せになると思う?
自分が苦しんでることに対して自分のせいだって言われるのは,自分が伺い知らないところで前世だかなんだか悪いことしてたからだ、その業が災いしてるんだって言う理屈につながるじゃない。
あほらしい。
そこには愛のかけらもない!!
だから私は腹が立つんだ。
自分で選んできたのだからって言う主張は,抱えている重荷を受入れていくことに役に立つのだろうか?
受入れるって言うのは感謝して喜んでって意味であって、あきらめ努力して無理矢理そう思い込むと言う意味ではない。
そもそもそこに愛があるなら,そのような苦しい作業が科されるわけがない。
愛は苦しみではない。
苦しみはすべて思い違いの錯覚から生まれてくるものだ。
人生が苦しみの連続であると言うのは思い込みだ。
自分が不幸なのは自分の業だって言うのも思い込みだ。
誰か他の人や運命のせいだというのも思い込みだ。
そもそも,自分や人生の本質が見えてないだけなんだから。
大きな声でシャウトしたい。
違うんだよ!!
あなたはホンの一部しか見ないで判断してるだけなのよ。
少し高いとこに上がるだけで、世界の美しさが見えてくるから。
今朝の朝焼けは、バラ色にあなたを包んでいたよ。
夕べも、月から愛のつぶつぶがこぼれて降り注がれてたよ。
いつだってどこだって
香しいブルーとピンクの愛の花びら(天使の羽かなあ)が
うふふふってさざめき笑いながら
軽やかにあなたの周りを舞っているよ。
ほら!
トランスパーソナル学やケンウイルバー研究を通してスピリチュアルな世界を合理的に追求している人たちは、学術の場ではかなり苦労している。
皆慎重に言葉を選び、正当派路線から遊離しないように、自説を秘めながら理解してもらえるのはどのくらいまでか、手探りで発表している。
そして実はこの人たちは、自らの学者人生、あるいは個人的な命そのものを守るために記憶喪失に陥ってるだけだということが、ゆうべはっきりわかった。
言葉でやり取りしているうちは出てこない。
嘘を言ってる訳でも、用心して慎重になっている訳でもない。
心をオープンにしても、とにかく記憶喪失なんだから思い出せないだけなんだ。
しかしそこで天使は尋ねる。
「あなた、人間じゃないでしょ?」
多感で夢見がちな少女じゃあるまいし、いきなりそうきかれて、ええ、そうなの、私天使なの、なんて答える人はまずいない。
もしそう答えられたら、スピリチュアルが大嫌いな尾崎先生はひいてしまって、もうつきあわない!って思うかもしれない。
しかし、天使はおかまいなく言う。
「人間のふりしてたら疲れるでしょ。」
戸惑いを隠せない科学者も、ダンスを見たら、全部わかってしまったと。
泣きそうになっていた。
そうなのだ。
言葉以前の何かは、言葉で説明するより光そのものを見ていただいたらいい。
感じるだけでいい。
言葉にしなくても通じてしまうんだ。
そう、そう、そう。
そうなんだ。
だいじょうぶ。
勇気をもってすすもう。
時代が受入れてくれるようになってきたから。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
合理性と言う足かせを捨ててしまいたくなるけど、これはやはり、死守しないといけない。
この世にとどまるための命綱だから。
光の世界へようこそ!!
おかえりなさい!!
宇宙物理学では、宇宙の始まりは気が遠くなるほど昔だと計算している。
前提となっているのは、そのとき時間の流れが現在と同じように流れていて、物質も現在と同じような法則に従っていたと言う理論だ。
その前提を問う学者はいないのだろうか。
究極の創造と言う出来事を3次元世界で説明しようとするから無理があるのだ。
ビックバン仮説もある意味ばからしい。
じゃあその前はどうだったのか、と言う永遠の難問が待ち受ける。
3次元で説明しようとするからだ。
違うのだ、全く。
宇宙は今この瞬間に誕生しているのだ。
そして今この瞬間に消滅しているのだ。
誕生させているエネルギーは、愛による交わりだ。
一番始めはどうだったのかとか宇宙の終わりはどうなっているのかという問いには、はじめも終わりもなく、誕生し続けているだけなのだと言うしかない。
実際そうだし。
これは何も意識だけの話ではない。
論理的に考えてみてほしい。
光の早さを計算して、今見ている星の光は、自分が生まれるずっと前に放たれた光だと言う。その説明を受け入れてる現代人。3次元ではそう説明するしかないからかなり無理してるって気がしてならない。
暗在系って言うのだったか。
見えない世界/ダークマターの不思議を考えたら、もうそろそろ、3次元で説明することの愚かさに気がついたら良さそうだと思うんだけど。
最新の理論物理学者はどういってるんだろう?
実は、確信をつかんでしまった。
宗教と科学が出会う真なる絶対のリアリティが見えてしまった。
つまり、時間と空間の極限をリアルに体験してしまったのだ。
心理学的に無難な言い方をしたらそのようなビジョンが見えたと言う表現になるけど、実際私はそこに立ち会ったのだ。
私にとってはリアルなのだ。
荒唐無稽だと言われたり、ついにいかれてしまったかと思われてもしようがないけど。
でもきっと、わかる人はわかるはずだ。
宇宙物理学者と話してみたいものだ。
最近は、お固い学会でもかなり面白い人を講演に呼んでくる。
日本健康心理学会ではスキーヤー登山家の三浦豪太さんだった。
彼自身も医学博士取得に向かっている研究者なんだけど,日に焼けた豪快な笑顔で語るエベレスト登山の極限状態の体験は,数字が並べられた実験データより心にぐいぐいはいってきた。
直接経験に勝る学びはない。
いたく感動した。
彼自身の経験から語る。
若い彼の失敗とおじいちゃまの成功を分けたものは何か。
聴衆の予想を裏切った。
若い自信と野心が過信となり災いしたのだった。
ポジティブイルージョン・楽観主義によって救われることは多い。
でも,極限状態ではほんのちょっとした無理が死につながるのだ。
しかし三浦氏は、同時に実験的データを用いて説明したのだった。
リスクがなければ喜びはない。
ストレスをかけなければ認知能力も筋力も発達しない。
彼のおじいちゃまは、100歳になっても細心の注意と節制をもって毎日トレーニングをかかさず,向上し続けていたという。お父様もそうだ。そして彼自身もそうだ。
健康を保つ心理的資質としてユーモアと自己客観視の冷静さをあげていたけど、まさにその通りだと思った。ユーモアも冷静さも,自分を離れたとこから眺める視点がなければ無理なんだ。
今ここでの経験に集中してコミットしているからこその、離れた視点なのだ。
これは極限の集中からでてくる突き抜けた世界だ。
フローとか,ゾーンとか言われている体験も似ていると思う。
それは時空を超越した,真理そのものが迫ってくるような心地よい体験であり,自己を超えた何かが働いている状態で、完全に意志を明け渡している状態なのだ。
しかし同時に,細心の注意も喚起され、変性意識状態でありながら現実感覚もしっかりもって観察している自分がいるのだ。
変性意識とか、いっちゃってるとか、アヤしいとか言われることが多いスピリチュアルな体験は、多くの人に日常的に起きている。
ただ立ち止まって意識的に記述しようとしないだけだ。
この当たり前体験の豊かさを共有できると、ますます楽しくなってくる。
このことに気がついてくると、ことさら語り合う必要もなくなってくる。
同じ場にいて呼吸を感じるだけで、目を見ただけで、もうわかってしまう。
この野生の知はまだまだこの東京にだって息づいている。
存在そのものの輝き。
楽しく夢中になっていると、凝縮した喜びが迫ってくる。
透明で涼しくクリアでさわやかで静かなその姿は,この季節の空気のようだ。
味で例えたら、二十世紀梨みたいだわ。
桃のようなねっとりはなくて,さわやかでさらりとまとわりつかないからだ。
おっとおおお
連想が進んでイメージが飛んでいくなあ。
今日はこの辺でやめておきます。
梨でもむいていただきましょう。
せっせと,グラウンディング。
スピリチュアルになることを病的に恐れ、日常生活に支障をきたすレベルになるとこう呼ばれても仕方がないだろう。
ただしこの言葉は私の思いつきの造語なのであしからず。
このフォビアには根拠があるから、非合理的に恐れる高所恐怖や不潔恐怖症などの、いわゆる精神科的な診断によるフォビアとは違う。
スピリチュアルになる恐れというのは、実際に生きていけなくなる、生きていきたくなくなる、生きる意欲がなくなるという意味で、こちらの世界からモノを言うと大きな問題だろう。
そしてこれはおそれだけではなく、ほおっておくとそうなってしまうのだ。
これはどう考えても、こちらの世界に視点を置いてたら、まずい。
こちらの世界に視点をおいてたらまずいという言い方自体、すでにあちらの世界からの視点をこちらの世界と同等に扱っている立場になっている。
こちらの世界しか大切だと思っていない人や、こちらの世界があってこそ、と考えてる立場からすると、危ない、やばいという発想になるだろう。
多数決でいうと、こちらの世界しか見てない人のほうが圧倒的に多い。
あちらに視点をおくモノの言い方自体が神秘家の世界であって学術的世界にはなじまない。ただ,その視点を記述するという意味ではメタレベルから記述している訳であちらからダイレクトに発言している訳ではない,という意味で、視点のことわりをしつつ、あちらからの眺めをここに書いてもいいかと判断している。
こちらからあちらの世界を垣間見たいと努力や修行しているがどれだけ多いか。
あちらの光を垣間見て、生きる意味を見出し、至福の中で内的な平安を保っていい人生を送ることは素晴らしいと思う。
美しいと思う。
あるべき姿だと思う。
だけど、あちらの視点から発言すると、今ここでしている努力や人生、自分が経験していることや自分の存在そのものだって、何もない。
何もないんだ。
あるように錯覚しているだけなんだ。
それがどうしたって感じ。
そうなると、人間的な意味でここに生きている意味なんて何も感じられなくなる。
そこでフランクルのいう超意味が出てくるのかもしれない。
これはなかなかわかってもらえない,誤解を生むようだけれど、
意味がないからといって、虚無的に人生をはかなんでいるというのとは全く違うのだ。
むしろ正反対だったりする。
光に包まれて美しすぎるんだ。
あまりにも、美しすぎるんだ。
だから、極致を越えて何もなくなるんだ。
この甘美な世界を知ると、ここにあることのすべてが色あせてくる。
だから、まずいと思うのだ。
まずい、非常にまずい。
ここに存在していることの意味と責任が面倒になってくるのだ。
この世界に存在しているという
まさにそれだけの、単純な、しかしものすごく重い責任が。
この世的に平たくいうと,それは死にたいということになる。
それは絶対にまずいと,この世の視点から叫ぶ。
病的に恐れて時にパニックになって、攻撃的になる。
スピリチュアリティなんか大嫌いだと言い放ち、遠ざけて決して近寄らないようにする。
まさしくフォビア的対処法だ。
スピリチュアルなものを遠ざけつつ、困ったことには、世俗的なものからも遠ざかる。
それは本質的になじまないからだ。
この世での生き残りをかけて、自虐的に、過ぎ去るものを他人のまねをして求めてみては、疲れ果てて故郷を見上げる。
生々しいもの、社会・組織・経済・人間関係・もっというと、命そのものまでが違和感を持つなかで存在する居心地の悪さといったら。
このような心的態度は、精神障害とカテゴライズすることも可能だろう。
何しろ、こちらの世界的には適応、この世に対する適応が精神的健康の診断基準になっているのだから。
ここまでは大丈夫だろうというすれすれの経験をしながら記述していくことが、何かしらにたような経験を持つ人の役に立てばいいと思って書いている。
この現象をロゴスにおとしめることによって、着地していくこと。
私がアカデミズムに身を置いているのはそのような意味があるに違いない。
これは、感謝すべき、上からの配慮なのだと思う。
スピリチュアリティ論」というタイトルの本邦初の授業の最終回を終えた。
この授業を受けて何か変化したことがありますか?にたいして
キーワードは「開いてきた」
要約すると、
�世界観の広がりや新たな視点の紹介により自己を相対化することができ、メタレベルでの気づきがあり、自己肯定や受容が高まった。
�講義の合間に聞いた言葉に勇気つけられて、心を開いて積極的に生きていけるようになった。
おお、マインドとハートが開いたのか!
とうれしくなった。
でも、何が開かせたのか?
スピリチュアリティ理論?そか。来年もしっかり教えよう。
講義の合間の言葉?
たとえば何?ってたずねたんだけど、実は、学生は全員覚えているのに、私は覚えていなかった。
そんなこといったっけ?
そう、意図的に言った言葉ではないのだ。
ましてや前もって準備したことでもなければ、シラバスに書いてあることでもない。
天然ボケかごめん・・・って笑ったんだけど。
実は重要なことに気がついた。
これがきっと、スピリチュアリティの真髄なんだってこと。
本当に開いていくと、話すのは自分ではなくなるから、まったく覚えてないんだ。意識して意図的に話しているわけではない、ただ自分は体をたまたま貸しているだけで、自分は限りなく透明なんだ。
そういうときに、何かが変化するし、すうっと入ってくるらしい。
このことに気がついた。
とすると、準備なしの即興こそが最高ということになる。
でも、それは教員評価としては最悪だわ。
なかなか・・・
開くという言葉を最近すごく耳にする。
私にあうと開いてしまうとか。
安心するのかな。
うん、世界は喜びと光に満ちてるからね。
開いて満喫していいんだよっていう感じになるのかな。
そう。
ただ、私が言う世界とは、本質的な世界だから。
そこを間違えないでほしいと思う。
世の中や人の思惑とか日常レベルではがっかりすることも多いかも。
でも、本質はまったく変わらない。
いつも、ずっと愛に満ちてるのだから。
たとえあなたがそう感じないとしても、そう思えないとしても、その本質はゆるぎないのよ。
本当はそれを実証したり議論したりするのもかったるいんだ。
当たり前すぎることだから。
というとこで、さ、現実に戻って事務仕事しないとなあ〜
覚えてないって、まずいよなあ・・・
悟りとボケは紙一重。(まなみん語録より)
東洋医学でいう五臓六腑。詳しくは知らないけど、それぞれの臓器が互いに補い合っている、それぞれの感情をつかさどっているらしい。
怒ってる人は肝臓をやられるとか、しんでると肺をやられるとか。
なるほどな・・・
怒りで肝臓をやられてる人には、肺の悲しみがいいのだそうで。
悲劇的な話で怒りが収まるのだそうで。
許さなければとか、ポジティブになろうとかいう話ではなく、悲しみの処方とはうまいことを言ったものだ。
悲しみには何が良いのか?
たぶん冷静沈着な思考だろう。
このように考えてみたら、すべてが大切で、問題なのはバランスが悪くなることだということがよくわかった。健康とはバランスの回復。
これが陰陽のバランスで、タオということなのか。
すごい智慧だわ。
不均衡を調和させること。
やりすぎ行きすぎを正して中庸に戻ること。
バランスバランス。
スピリチュアリティにまつわるいろいろな言説がある。
文化によってとらえられ方が違っている。
使う人の専門分野で、まったく別のことを意味してたりもする。
宗教だと思う人もいれば神秘主義オカルトだと思う人もいる。
見えないものだとか言葉で説明できないものだとかいう人もいる。
ある人は人生の意味・目的・生きがいだといい、ある人は究極の関心だといい、ある人は大いなるものとの関係だといい、ある人は愛だという。
言葉で説明するときには限定がかかる。
だから音楽や踊りなどの芸術で表現しようとする人たちがいる。
それでも、具体的なものが付与されるから、受け手の感受性によってさまざまに解釈されてしまう。
そうすると、こうだ、ああだという議論がはじまる。
本質は、そのような具体性を取り去ったところにある光でありエネルギーであり情報であり、すべてであってしかもとらえることはできないものだろう。
とすると、一番ぴったりする表現法は、数字の0であり、同時に∞(無限)であるということに気がついた。とするとスピリチュアリティが何か数学的な法則で説明できるかもしれない。
ただし、これでは実証科学にならないなあ・・・。
科学的仮説は検証されなければならず、そのためには具体的な話が必要となってくる。
生きがいを感じている人はハッピーだとか、意味を感じてる人は死ぬのが怖くないとか。
ああ、でもこういうのはみんな心理学的に、認知とか、情動とかメンタルヘルスで説明できることとどこが違うのだ?
科学的理論は結局、そうではない、ということをどんどんクリティカルにつめていくプロセスにしかならない。目に見える測定できる表面をなでることしかできない。
結局のところ、科学とはそういうものにすぎない。
スピリチュアリティを科学するとはなんと無謀で乱暴なことに挑んでしまったのか。
でも、これは確かに、私の究極の関心であり、無条件の愛(報われることがないとわかっていてもひたすら信じ、関心を持ち、接近し続ける。笑)なのだ。
少しひんやりした空気の中、桜の下を走って家に帰ってきたら、ご飯がいい匂いでたけていた。
なんとなくその匂いは懐かしくて、幸せだな~という気持ちに満たされた。
うちの朝ごはんは和食ではないことのほうが多いんだけど、お弁当のためにご飯を炊く。
炊き立てご飯の幸せな匂いって、日本人でないと感じないんだろうな・・・とふと思った。
欧米人だったら、焼き立てパンの匂いなのかな。
あるいは薫り高いコーヒーかな。
パンケーキだったり、おかゆだったり、そのおうちの定番朝ごはんがあると思う。
ばたばたシャワーしたり準備したりしながら漂っている、幸せな匂いというものがあると思う。
お味噌汁やお漬物の匂いでほっとする人もいる。
納豆の匂いは日本人でも好き嫌いが分かれる。
キムチの匂いでよし!今日もやるぞって元気の出る人もいるだろう。
長年の経験から染み付いた好みは、瞬間的に感覚をとらえて感情が呼び起こされる。
実はこれが、その人のスピリチュアリティ体験にかかわっているということに気がついた。
輝かしい日の出を見ながら、この光がまぶしくて嫌だという人のことを考えた。
その人は暗いところが居心地がいいみたいだ。
これまでの経験からの理屈ではないしっくり感なのだろうと思った。
それぞれのスピリチュアリティ。
私は日本人でありながら、日本的スピリチュアリティがどうしてもピンと来ないという悩みをずっと持ち続けている。頭で理解しようと努力するけど感覚的にまったく共感できないのだ。
これはきっと、小さいときからの体験にかかわっているのだろうと納得している。
生まれた時からベットとイスの生活で、小さいころの食事風景は、ちゃぶ台ではなくハイチェアーだったという風景や、宗教や迷信嫌いで合理的な父親の影響で?うちにはお線香だとかお漬物だとかいう匂いがまったくなかったのだ。
中学の理科の時間に、条件反射の説明として、梅干を見ると唾液が出るでしょといわれて、一度も食べたことがなかったからわからなかったという私だ。レモンだったらわかる。
こんな風だから、多くの人が懐かしいとかほっとするという風景や光景、匂いに私は共感できずにたたずんでいる。
朝日を拝んだり、桜をめでたりという自然は共感するけど、神社とか儀式とかカルチャー的な部分でなじまないのだ。
それを外国人のように、ヒンズーの儀式を眺めるように観察してる自分がいる。
感動することもあるけど、それは外国人としての観察だ。
でもなぜか、ネガティブな感覚があって、避けてきたということに気がついた。
この気持ちはどこから来ているのだろう?
非合理的なものに対する警戒だろうか?
少しつき合っていきながら、ぼちぼち日本人のスピリチュアリティを考えていきたいと思っている。
死や死後の世界なんかを語るのは、タブーという立場もあるし、だからこそ、語っていかないといけないという立場がある。
隠されているものを明らかに、意識化、言語化していくという作業は、それに対するとらわれを失くすことに意味があるのだと思う。そうしてクリアに実態を把握できるようにしていくために必要なのだと思う。
隠されていたことに夢中になってしまうのもまた病的な反応だと思う。
もちろん、今まで語られなかったことは新奇性があって目を引くし、バランスを取るために一時的に盛り上がりを見せてもいいと思う。
でも、ずっとそれに引きずられているというのには、固着という病的な心理を感じてしまう。
私が光にこだわっているのはたぶん、毎日の生活の中で、そうではないことを見聞きして、え?って立ち止まってしまうからだと思う。
そういうことがなければ語る必要は何もない。
しかし、実は、え!は結構多い。
死を美化する人たちがいる。
どのような死にも意味があるしストーリーがある。
けど、できたら避けたかったし、遅らせたかったし、嫌でしょ?違う?
こういうことを聞くのは残酷ですか?
クリアに自分自身を見つめて把握するときにこそ光がすうっと入ってくるでしょ。
スピリチュアルになれない、死を受け入れられないなんていわないでください。
あなたがあなたらしくクリアであるときこそが、スピリチュアルっていうのよ、きっと。
努力したら何とかなるとか、教育可能とか、まあ、ある程度は夢を持たせるしいいことだとおもう。
でも、それがすべてではないってことを肝に銘じておく必要がある。
自分ががんばれば何とかなるって考えは、自分が世界に責任を持ちコントロールするという、大それた傲慢な考え方である。
何もしないで放棄するのは生き方として情けない。
私が言うのはそういうことではない。
極限までできることをやりつくしたあとの話だ。
できないものはできないのだ。
とことん手を尽くしても治らない病気は治らないのだ。
世の中から戦争をなくそうとしてもなくならないのだ。
それが悲しい現実で、われわれはその中に生きているのだ。
ニューエイジっぽく、意識が変わればすべてが可能になるなんて単純に言わないで欲しいのだ。
病気が治らないのは、無責任に知りもしないで、生活習慣が悪いからだとか、人間関係の問題だとか、信心が足りないからだとかいわないで欲しいのだ。
宇宙はわれわれ人間の思いや行動を越えた原理で動いているのだから。
スピリチュアリティを人間の意識レベルやエネルギーという低いレベルでとらえているから、そのような混同が起きるのだ。
きっちりわける必要がある。
一般に、スピリチュアルヒーリングといわれたり、意識や思いや祈りで現象が変化するといわれたりする世界は、心理学でも、もう少ししたら科学的、あるいは少なくとも現象学的にきっちり記述が可能な世界だ。
本質的なスピリチュアルな世界は、それを越えたところにあって、そこはわれわれがタッチすることのできない彼方にあるのだ。
たまたま運良く、そこに一致することができる人もたまにいるらしい。
それは運良くなのだ。
あなたの精進の賜物ではない。
まったくの恩寵の世界である。
自分を責めたり人をうらやんだりっていうのは非常に人間的な反応だけど、エネルギーと時間の無駄だ。意味がないだけでなく、病気になったり人間関係を壊したりと悪影響がある。
お金払って学校にいったらスピリチュアルになるというのは、ちょっと違うといいたい。
エネルギーや意識レベルの医学は可能になるだろう。
しかし、本質的なスピリチュアルな世界は、それを越えた彼方にあって、働きかけるなんていう人間のちっぽけな驕りは消し飛んでしまうスケールの永遠なのだ。
その勘違いと傲慢さに、私は我慢がならない。
低次元の人間的な意識やエネルギーには善なるものだけではなく、不透明でわけのわからないものが混在している。
それをありがたがったり、恐れたり、操作しようとしたりするのは、決して本質的なスピリチュアルなことではない。
しかし、世の中で認識されているスピリチュアリティがほとんどこのレベルであることは間違いない、残念だけれど。
私がこの世は光と愛に満ちているというのは、現象をさしているのではない。
その本質を言ってるに過ぎないのだ。
今まで、そこをはっきり言わなかったからものすごい勘違いをされているということに気がついた。
あまり言うと、ジャア、やっぱり、この世は苦しみで、どうすることもできないのですねって、厭世的な突込みがきそうだけど、そうではない。
そうではないのだ。
同時に、光と愛に満ちている香しく美しい世界なのだ。
このあたりの説明はまた後日考える。
現実的、物理的世界では、もちろん目に見える事柄がいろいろなことを決定している。
あたかもそれだけかのように思える。
心の中の出来事も、意識していることは、行動主義者のように目に見えるものとして扱ってもいいかもしれない。
行動や言葉として外に現れるからだ。
見えないものはオカルトと言われる。
オカルトの語源は、隠されたものとらしく、暗在系という言葉にも対応する。
ここでは理論物理学や神秘学ではなく、心理学の立場で見えないものの話を進めよう。
心理学で見えないものをあつかうのに一番都合がいい概念は、無意識とか深層心理というものだろう。
これは意識との境ははっきりしてなくてスペクトラムのようだ。
深層の、無意識の、奥の奥のほうに、ずっと根源的なところには、光があると仮定しよう。
科学的に仮説としてとらえてみよう。
あの世の話や前世がどうのこうのという話ではない。
いまここで、意識的に生きているあなたの無意識の話だ。
根源的で本質的なものが光と愛であったとしたら、そしてそれは残念ながら隠されている真実だったとしたら。
いまここで目に見える世界で起きていることは影、幻想、夢に過ぎない、と仮定したらどうだろう。
現実的に何が起こっても、平安で幸せな暖かい気持ちが湧き上がってくるのではないだろうか。
少なくとも、理論的にはそのはずだ。
だとしたら、この仮説は有用であると判断できないだろうか。
精神的健康に貢献することは確かだ。
この世が光に満ち満ちているという主張が、あまりにも宗教的なひとつの立場を強調しすぎると思われる人は、科学的に仮説としてとらえてみて欲しい。
有限な人間に真実をとらえることはできず、真実だと思われていることも、そのとき、その場でうまく説明がつくという仮説に過ぎないのだ。
すべてが仮説であると言う前提では、どちらが正しいかどちらが物事をうまく説明できるかと争うより、どちらが幸せになるか健康になるかと言う基準で採用したほうが賢明だと思わないだろうか。
こういう立場は、功利主義とかプラグマティズムと呼ばれるらしいけど、死後に救いを求めるより健全なのは確かだ。
スピリチュアルであるとは、この目に見えない光を見つめていくことだと思う。
(オーラとか守護霊うんぬんではないです)
スピリチュアリティに関心がある人はたぶん、自己の内面における成長に深い関心のある方だろう。
個性を大切に!とか、多様な価値観の尊重!などという主張に共感する人たちが多いと思う。
これ自体決して悪くない。
ただ、こればかり強調すると、自我肥大を起こす可能性がある。
集団主義に抑圧された過去に対する反動で、心理主義やスピリチュアルブームが注目された(私の中ではすでに過去になってます。笑)けど、行き過ぎのわなも同時に叫ばれている。
個性の尊重、自分らしく生きることが大切にされる中で、社会適応ができない個人が大量生産されている。
内的に平安であったらよいと、世知辛い社会を避けて社会生活から撤退する人たちもいる。
社会規範を逸脱しながら、それを個人の自由とみなして謳歌する人たちもいる。
何が問題なのだろう?
バランスが悪いのだ。
どんなによいと思われることでも、行き過ぎは弊害を招く。
昨今のスピリチュアリティブームに関連して私はあえてアンチ・スピリチュアリティを叫びたい気分だ。
正確に言えばアンチではなくインテグラルなんだけれど。
アンチ科学ではなく科学との統合。
アンチ共同体ではなく社会との折り合い。
アンチ肉体的欲求ではなく含んでこえていくこと。
それぞれがすべて必要な役割を持ち尊重されてこそ、個人のまた社会の発達がある。
心理学者は内面主義におちいりがちである。
自分自身に誠実であることと同時に、社会的正義にもセンシティブになるべきであろう。
バランスよく開花するときに、最高にうつくしい花が咲く。
自戒を込めて・・・
私は、見えないものが見えると言う類の話にはノーコメントを通してきているつもりだ。否定しているわけではない。ただ、非常に危険だと思うから近寄らないようにしているだけの話だ。
見えない存在(中間存在と呼ぼう)にはさまざまな存在があり、すべてが神や仏ではない。むしろ、そうでないものがごちゃごちゃいたりするみたいだ。それにもかかわらず、神秘的様相を示しているからか、何かしら声が聞こえるとか見えるとかいうと、吟味しないまま、聖なるお告げのように捕らえる人が多すぎる。
だから危ないのだ。
極端な例で言うと、真に受けると自分も他人も傷つけてしまうような、いわゆるアクレイと呼ばれるような存在だってうようよしてるのだ。しかもやつらは強力で賢いときてるから、禅でいう魔境だっけ?修行を積んだ高僧でさえ惑わされることがあるのだ。
人間はそこまで弱い存在である。
そして、だからこそ、何かを絶対化・神格化したい衝動が常につきまとっているようだ。
人間を神格化するととんでもない幻想にとらわれて間違いを犯してしまうという可能性は歴史を見ればよい。中間存在の場合にはもっと強烈だ。もちろん最高の善なる存在と一体化した崇高さも観察されることがある。しかし、そうでない場合のほうが圧倒的に多い。
私がスピリチュアリズムが好きでない理由はそこにある。
不完全な人間には、最高善は捉えられないはずだしそれは永遠の課題であって、さとりなんていうのはどうもうさんくさいというか。
どのような聖者であっても、人間は人間だ。かわいい存在なのだ。
それを忘れてはいけない。
不完全なものが完全を捕らえられるわけがない。完全さの記述ができるわけがない。記述したとたんに完全でなくなるのだ。
それを完全だと言うのは、ものすごくあやしいってこと。
それに近い体験をしたら感動して最高だと言うけど、あくまで未熟な自分の体験だ。
自分と言う受信機を使って達成できたと言う意味での最高だ。
修行すると言うのはその感度を増すための精進なんだろうと思う。
たまたま遺伝的素質に恵まれている人ははじめから感度がいいに違いないけど、訓練をしたら研ぎ澄まされてくるのは当然だし、どんなに鈍い人でも、それなりに発達するはずだ。
訓練やトレーニングと言うのは、スプーンを曲げる練習とかヒーリングテクニックのトレーニングではない。それらは中間存在なら誰にだってできる訳ないことだ。
最高善に対する感度を磨くには、お掃除するとか笑顔で感謝していると言うような、地道な愛の実践しかないってことに気がつかないだろうか。その感度が増したら、見えてくるし能力が増すのは自然な道筋だ。だけど、その超自然的な能力を目的としているとこにはエゴイスティックで美しくないものが漂っていることが多く近寄りたくなくなる。
問題は、いいものとごちゃごちゃになっていること。でも、そういう様相を見ると、「私はスピリチュアルじゃない!」って言いたくなるし、近寄りたくないし、そういう話もしたくなくなる。
種明かしすると、単純な話、体調が悪くなるだけの話。
そういう自分だって不完全だし、不完全な自分がこういうことをえらそうに書くことも、めっちゃ傲慢で我ながら吐き気がしてくるなあ。
うっ
少し潔癖すぎるかも。
神話はファンタジーであって、科学的に証明される真実ではないけれど、心を理解するには重要な物語だ、という認識がある。
しかし、科学といわれているものも、厳密に言うと、いまここで一番都合よく説明できる仮説というストーリーであって、多くの人が賛同している物語・神話だと言い換えることもできはしないか。
たとえば、牛乳で骨粗しょう症が改善できるといった、一見科学的な言説は、疫学データから覆されているにもかかわらず一般にはまだ浸透しているようだ。肉を食べないと力が出ないという神話もあれば、日本人は米の飯を食わないと戦には勝てないとかいう神話もある。
ちょっとトレンド風な神話でいうと、マクロビのような菜食はスピリチュアルな精神をもたらすとか若返るとかいうのもある。
統計学的に言うと確からしいといえるデータがあるのかもしれない。しかし多くの場合、あまりにも媒介変数が多く、生きた人間をコントロールできないために、何が要因で若返っているのかなんて特定できない。プラシーボ効果っていうもの(信じたらそうなる)が大きいし、研究者の思い込みと信念が事実を動かす(これも神話だが)という要因もある。
科学的に証明されたというのは、厳密に言うと、確率的におきやすいということであって、常にそうであるということではない。個人差もあれば状況による特別な例外だってありえる。
科学が神話になってしまうのは、データをそのまま鵜呑みにしてクリティカルな思考が失われたときである。これは何も一般人だけではない。科学者であってもやはり信じるものはあるし期待もある。
それは人間として当然だ。
しかし、科学者が、それをあたかも真実のように記述するというのは、たとえ無意識的なことで美しい動機からであっても、私は罪だと思う。
科学者は、科学的事実や理論はすべて仮説であるということを嫌というほど知っているはずだ。そしてそれは、科学の進歩と新しい発見によって覆される運命にあることをも知っているはずだ。
科学者の端くれとしての私は、自分の駄文を読み返しては戦慄を覚える今日この頃である。
(なんちゃって・・・という別のモードもあるし、あっていいと思いますが)
何か不都合が生じてしまったときに軌道修正をしようとしてもなかなかうまくいかないことがある。
早めの対処やちょっとしたことだったら、休むという単純なことで改善されることも多い。
あれこれ手を尽くすより、流れを見て時が解決するのを待つというのもいい手だと思う。
場合によっては逃げるが勝ちと言う事もある。
消極的に、かかわらないようにするという手もある。
いろいろやってもらちが開かないときには、原点に戻ったらいい。
リセットだ。
ゼロに戻すのだ。
人生のリセットって、自分が今まで築き上げてきたすべてのものを放棄することを意味する。
長年の努力によって手に入れてきた社会的地位、財産、コネクションはもちろんのこと、業績、仕事だけでなく、家族、プライベートな信頼関係、自信、健康まであらゆるものを放棄するのだ。
そして一からやり直す。
放棄するというのは破壊することではない。
とらわれないというだけの話だ。
とらわれなくなったとき、真の平安が訪れる。
年収はこのくらいないとやっていけないとか、高校は卒業しないといけないとか、パートナーがいないとだめだとか、病気でできることなんか何もないとか、とらわれていると苦しい。
とらわないということは無気力になることを意味しない。
何かにとらわれて、それができないとき何もする気がなくなる。
無気力な人というのは、内心の「こうあるべき」に縛られていて達成できない人だと思う。
とらわれないというのは、最も大切なことにだけフォーカスするということを意味する。
それは
生きるということ、愛するということ。
つまりこの瞬間をいとおしみ楽しんで満喫していくということ。
生まれてきたときがひとつの原点だ。
私たちは、肩書きも財産も何も持ってなかった。
裸だった。
そのか弱い存在を支える基盤に対する信頼を取り戻すのだ。
それが原点に戻るということであり、すべてを放棄することである。
言葉を変えれば、一番大切なもののみを見つめて、ほかにとらわれないということである。
人類は、世界は、宇宙は、常に成長し、進化し、発展し続けている。
この仮説の証明はほかの機会に譲るとして、この仮説を支持したら幸せになるということだけを説明したい。
成長痛とか筋肉痛でおわかりのように成長には痛みが伴うことがある。
痛みや苦痛はそこに集中してしまったら耐え難いのだけれど、成長に必要なプロセスであることがわかると楽しみにさえなってくる。
成長や進化は新しい未知の経験を広げていくことだから、それをわくわく興奮して受け止めるか不安になるかは捉え方次第である。輝かしい成長というゴールが見えていたら興奮に満ちた楽しいものに見えてくるに違いない。
目の前の世界があまりにも過酷な場合、進化ではなく退化ではないかと錯覚してしまいそうになる。
苦悩はその重圧を感じるためのものではなく、そこから生まれてくる強烈な快楽へのプロセス戯れ、錯覚に過ぎない。
スピリチュアルとは、苦悩が錯覚に過ぎないという認識の下で、今この瞬間をどれだけ楽しんでいるかで測られる。
スピリチュアリティに関心のある人の一番大きな欠点は、たぶんあまり身体運動をしないってことではないだろうか?
身体運動が脳の機能を向上させることに関するデータはたくさん蓄積されている。
ストレス軽減作用やランナーズハイと呼ばれるような高揚についてもよく知られている事実だ。
つまり脳だって身体の一部だってことの証拠である。
辛い運動を我慢して必死でやるのではなく、楽しく笑いながらやったらどれだけ免疫が向上するか計り知れない。そういう意味では、エアロビクスのクラスなんか最高だ。インストラクターにもよるけど、たいていが、はじけるようなあふれるような笑顔に満ちている。
のってたら笑顔で続けたらいいし、戸惑っても間違っても、あはははとますます笑っていたらいいのだ。苦しくなる前にやめたらいいのだ。
苦しいのが好きだっていう人もいるけれど、無理したら故障するし、弊害がでてくる。
身体は必ず警告を発する。
根性で何とかしようとするのは、物理的原則の無視でスピリットに対する過信だ。
心・体・魂は分離できないものなのだから、心も体も大切に扱うときにこそ、魂が喜び、スピリットも高揚するのだ。
ちょっとしたスパイスは確かに必要だけど。
多すぎたら苦くまずくなる、ダウンしたり病気になったり。
スパイスがないとまた食べられなかったりもする、退屈して覇気がなくなったり。
そのとき必要な一番おいしいものは身体が知っている。
2時間のランニングが必要な人もいれば、5分のウォーキングがいい人もいる。
身体にききながらやっていこう。
ちょうどいいかどうかの目安は、意味もなくたまらなく嬉しくなって、世界中に笑いかけたくなってくるかどうかだ。
ベータエンドルフィンやドーパミン・セロトニンなどの自然の抗欝剤というか、脳内麻薬と呼ばれるほどの快感物質が放出されるからだ。
運動に病みつきになっている人は、この快感が忘れられないからやってるのかもしれない。
自然は本当にうまくできている。
その法則にただ単純に従うだけで、本質的な健康と幸せが得られる。
高い道具も特別なメニューもあれこれ考える必要も何もない。
太陽とともに目覚める。
最高の芸術作品の鑑賞から一日のスタートだ。
ただただ、いまここにいること、与えられているものを喜んで感謝してるだけでいいのだ。
なんと言う単純。
人生にはわからないことがたくさんある。
わからないことがあると、わかりたいと思う。
メカニズムがはっきりわかったらもっとうまく対処できるのにと思う。
でも、実際には、わかってもどうすることもできないことだってたくさんある。
どうすることもできないことがわかって、かえってがっかりしてしまうこともある。
成せばなるとか、がんばったら大丈夫だ、というのは、外界の状況が変化するというよりむしろ内的な認知が変化することによって、対処がうまくなることをさすのだ。
内的な態度が変わることで外界も変化していくことは、結果としてはよくある。
しかし変化しないことだってある。
自分の努力ですべてコントロールしようとするのではなく、謙虚に、あるがままをじっと受け入れいつくしむ。
だからといって努力しないのではなく、最大限成すべき事を成すからこそ、そのような境地に平安で至ることができるのだ。
私は、このような態度をスピリチュアルと呼ぶ。
ここで言うヒーリングとは、世間で癒し系といわれる音楽、芸術、セラピーなどをさす。
私自身、声が癒し系だとか言われ続けているけれど、ヒーリング系といわれるものの大半は実はあまり好きではなかった。個人的感性かもしれないけれど、バッハとかモーツアルトとかの方がずっと魂に効く。そういう印象を持ちながら、アルファー波が判断力を失わせてマインドコントロールを容易にしていく傾向の危険性を訴える程度しか今までしてこなかった。
実は集団人体実験を行ってみて、その実感を自分だけのことではないと確信した。
音楽には好き嫌いがあって、ミュージックセラピーも音楽の選択や聞かせ方にはいろいろと理論がある。面白いことに、植物や動物に聞かせて成長を比較すると、クラシック系のゆったりした音楽は成長がよく、ハードロック系では成長が阻止されるという結果がいくつか報告されている。
これには観察者や実験者・報告者の価値観が反映されているから鵜呑みにはできないとしても、一理あると思わざるを得ない。
ヒーリングミュージックを聴いて、アルファー波が増したという報告はあるけれど、それで元気になったとか自己実現が進んだとか幸福感が増したとか言う心理学的報告はみたことがない。もちろん、宣伝媒体には広告のための視聴者の言葉なんかは出ているけれど、客観的評価ではない。
正直言うと、私自身は気分が悪くなることが多いのだ。
先入観を廃して授業に導入してみようと思い、良質だと思われるものを60人くらいに聞かせてみた。
客観的評価をさせたら、気分がよくなったと言う人と悪くなったという人がほぼ半数だったのには驚いた。ま、半分は眠くなっただったのだけれど。元気が出たという人はいなかった。
これをどのように評価するかは立場によってさまざまだろうけれど、いわゆるヒーリング、スピリチュアルヒーリングに関しては、客観的評価を寄せ付けないところがある。
「理屈はわからないけど、効いたらいいんです。」という立場は説得力が有りそうだけどある意味恐ろしい。信仰、思い込み、ひいては悪い意味での宗教になりかねないからだ。
わが国のヒーリング業界を見ていると、商業主義とともにこのような非合理性を許す風潮が見え隠れしている。玉石混交とはこういうことだ。
ヒーリングの客観的科学的評価は確かにさまざまな困難を伴うけれど、それは別に科学主義一辺倒の頭がかたい人を納得させるための手段ではなく、本当に効果があるのかどうかを見極める、証拠のしっかりした対処を提供するという意味で、倫理的な医療従事者には欠かせないものである。
ヒーリングに携わるナイーブで良心的な人たちは、クリティカルな思考に慣れていない傾向が見られる。
スピリチュアルになればなるほど、高度に科学的・論理的・客観的・合理的思考を持ち合わせていなければ、足元をすくわれる。
私の場合は非常に主観的に吐き気がするなどの体調で気がつくことが多いけど、これを客観的指標で示していく必要があると痛感している。
動物が助け合って生きていったり共食いしたりする現象を、人間の姿に置き換えて、美しい、愛だとかエゴイスティックな行動だという表現をすることがある。
しかし、動物はただ本能的に自然の秩序にしたがっているだけだ。
善も悪もない。
もしあるとしたら生物保存の法則(タオと呼んでもいいだろう)に従うという善がある、時にそれが何らかの事情でうまく機能しないという機能不全の状態が観察されるだけで、それはいくらすさまじい殺戮でも、悪と呼ぶのはナイーブすぎる感性だ。
人間社会も同じことである。
利己的な行動を悪と呼ぶ場合が多いが、利己的というのも個体の自然法則・秩序であり、それがなかったら絶滅する。
自由意志を持った人間は、時に酒タバコ不摂生ひきこもりなど不健康な行動を選択する。
命をちじめる、エネルギーを減少させるという意味でそれらを不健康と呼ぶ。
それはその行動を外側から見た視点である。
それらの行動を個人の内側から見た場合、理由、意味、プロセスの必然性などが見えてくる。
ひとつの病的症状を示しているからこそ個体全体の命が守られていることもある。
医学的データから明らかである。
それは悪というより、機能不全状態、防衛機能・病理と呼ぶのがふさわしい。
戦争や犯罪でさえ同じ理屈が適用できる。
社会病理である。
病気だとしたら、それは戦って絶滅させる対象というより、憐れみと治療の対象である。
このような認識は人類を平和に導くのではないだろうか。
たとえ人類がみなつながっているという認識がないとしても。
知的・合理的でも大いにスピリチュアルでありえるのだ。
がんばって克服した、戦ってきたという話に勇気つけられることは多い。
やればできるんだ!
いつだって大丈夫なんだ!!
でも、本当のことを書くと、本質的なことは、がんばってもできないことのほうが多かったりする。
死にたくない!!
無理・・・
できない
いくらがんばっても、すべての人に寿命があって、全員いつかは死ぬ。
どうすることもできないものに対して抵抗することは、不可能なことに挑戦するってことだから、負け戦に挑むことであって苦しみの連続だ。
そのためには、がんばる自分は一度死ななければならないのかもしれない。
そう、つまり、自分では何ひとつできないことを謙虚に認めること。
そのとき、大いなるものがあなたの中で生きはじめる。
抵抗しないでまかせて安らぐときに甘美な至福はやってくるのだ。
そう、がんばらないときにこそ。
回復力とか復元力とかを意味する。
もともと、ストレスと同じように工学系の言葉だったらしいけれど、最近はいろいろな使われかたをしている。
心理学的には、ストレスやトラウマなどからの立ち直りや抵抗資源として重視されている。
健康の指標として、免疫が高くて病気にならないことも揚げられるけれど、ダメージを受けたときにどれだけ復元できるかという抵抗力もカウントされるだろう。
生きている限り、さまざまな出来事で常にへこまざるを得ない、そこからどうやって回復していくか。
その回復力の根源にあるのが、感謝だ。
ダメージを受けたときにはその感謝はでてきにくいのがアタリマエだけれど。
回復力、レジリエンスには、まず回復したいという動機と、回復するんだという意志が必要となる。
その意志と動機は、生きるぞ!生きたい!という根源的なところからでてくるものである。
なんのために生きているのかと哲学的な思索をめぐらしても、時間がかかりそうだ。
長期的なエネルギーとして重要かもしれないけど、今ここでこの瞬間に前進するには、小さな単純な喜びがそのきっかけとなる。
澄み切った美しい空。
赤ちゃんの笑顔。
道端の名もない花。
朝日に映える霜柱。
喜びの種は世界中に満ちている。涙で曇った目には見えにくいかもしれないけど。
今日も昨日と同じように、そして明日もずっとずっと毎日、喜びの種を撒き散らしている世界に感謝。
耳の聞こえない学生がいた。
音楽療法の授業ですばらしい音楽を聴いた。
彼が質問した。
「音楽が聞こえないのに感動した、これはどう説明しますか?」
なんと説明したらいいのだろうか。
私たちが見えるものは、たまたま可視光線と呼ばれる波長の波動だけであって、それを越えた波動はいたるところに存在していることが確認されている。紫外線とか赤外線とかいろいろある。見えないけど感じる。
音も同様に、聞こえる音の波動域というものがある。聞こえない音はどうもいたるところに存在していることが確認されている。超音波とかいろいろある。聞こえないけどその作用は観察できる。
見えないから聞こえないからといって、存在しないとはいえないのだ。
触れないから、感じられないからといって、存在しないとはいえないのだ。
すべて検出器の問題だけなのだから。
見えないものや聞こえないものがたくさん私たちの周りを覆っているのは事実だ。
それを何かの瞬間に検出することがあっても当然だ。
でも、それは通常の光や音ではないから、言葉で表すのは非常に難しい。
その見えないもの聞こえないものの正体は、超高速の透明な光というのが一番近い実感なんだけど。
見えないけど聞こえないけどその作用は明らかだ。
心があったかくなる。
生きててよかった、って感動する。
すべてのものにありがとうっていいたくなる。
感謝と感動の涙・・・
見えないけど、聞こえないけど、確かにあるんだ。
それをみなは愛と呼ぶのだと思う。
光と影の統合テーマは、スピリチュアリティを語る際にいつもつきまとう。
私としては、いわゆる光も影も包み込んだ静寂な状態を、柔らかく冷たい透明な光と感じてるんだけれど、それを光と表現したとたんに、影との対比で連想される方が多いようで、なんと表現したらよいのか難しい。
完全な漆黒の闇はブラックホールくらいしか存在しないはずだから、どんな暗闇でも何か対象が存在するということは、そこに光があるという証拠になる。
だから私はすべてを包み込む光という表現をするのだ。
実際、われわれの存在している世界では、光のない世界はない。
物理的に考えてもこんなに単純な話はない。
皆が闇とか陰とか言ってるのは、単に光が少ない状態にすぎない。
どこまでも透明な光は、どこまでも貫き通すのだ。
対象を、どこまでもそのまま映し出すだしているだけなのだ。
闇には光がある。
でも、光には闇はない。
光がなければ闇は存在しないのだ。
さまざまな色は、この透明な静かで冷たい光の輝きを際立たせるための装飾であって、グロスな戯れだ。
言葉も同じだ。
闇はさらに、この光の存在を証明するための装置でしか過ぎない。
光だけの世界では、それが光であることに気がつくこともないのだから。
ルールを破ったり、乱暴な行動をしたり、人を傷つける言葉や行動で悪いやつだと評価されるような人が、なぜかものすごくいとおしくいじらしく抱きしめたくなるのはなぜだろう?
悪いとされる行動や態度の奥に、あなたのきらきらした涙の結晶が見えるからだ。
痛々しいあなたの健気さがこちらの涙を誘うのだ。
抱きしめようとしたら剣で胸を突き刺されてしまうだろう。
そしてその剣はあなた自身をもっと深く突き刺していくのだ。
スピリットで抱きしめているからね。
だいじょうぶ。
そう、だいじょうぶだよ。
みなが求めているスピリチュアリティって、無意識世界に関係してるようで、瞑想したりヨガしたり、夢の解読したり占いしたりして、その世界を知りたいという人が多いようだ。
たいていの人の話を聞くと、意識的に無意識を探ろうとしてるように思える。でも、無意識のほうが大きいし、力もあるし、すべてを覆っているから(なんせ時間も空間も越えてるんだから)そんな、がんばって探らなくても、と思ってしまう。
探るまでもなく、今ここにすでにあるんだし。
スピリチュアリティって、求めるものじゃなくて、自分に与えられた意味を解釈して言語化していくだけの作業じゃないかと思うんだけど。
無意識は求めるものではないよ。
求めてしまったら、それは意識的なものだからすでに無意識とはいえない。
ここにきっとスピリチュアリティ探索の矛盾があるのだと思う。
求めていくから、妙な自我の計らいが加わって変な方向に行くのだ。
自分のあるがまま、そのままでたゆたうだけでいいのだから。
身を任せて甘美にそれを味わって。
そしてま、気が向いたらそれを言葉に置き換えてみようって世界で。
はじめから目標とか仮説とかがあって検証していくようなものではない。
レベルとか、深度(進度)の査定ができるわけないし(してしまったとたんに、スピではなくエゴの世界になる)、ましてや資格とかお免状の世界でもない。
なにやってるんだか・・・
専門家がどれだけ苦労しても、うまい日本語が見つからない。
カタカナの「スピリチュアル」では決してない。
霊的でも、精神的でも、部分的あるいは一部が極端に強調されて本質は伝わらない。
それでも何とか、一番近い日本語はなんだろうと、考えてみた。
今日のところは「気高さ」にしておこう、まだまだだけど。
口の悪い友人が言ってた。
「アホスピの時代はそろそろ終わりじゃないか」
そうかもね。
いやほんと、難しいですね。
もしかしたらみんなは、戦わないとやられると言う恐怖におびえて、戦争に出かけないまでも、仮想の敵に備えて準備しているのではないだろうか。
傷つくことを恐れて未然に防ぐためにだ。
あるいは愛するものを守るためかもしれない。
でも実際は戦ってみたらわかると思うけど、戦えば戦うほど、敵は強大になっていく。
でもっと、ますます鍛えて臨むんだろうけど、そうすればするほど、相手も強くなるのだ。
これは何も外側の敵のことだけを話しているんではない。
基本は内なる戦いだから。
自分の欠点を克服しようとか、自分に打ち勝つという発想で努力してみた結果はどうだろうか?
残念ながら、たいていは疲れはてた挙句の敗北ではないだろうか?
なぜかというと、戦って打ち勝つことなんかそもそもできないから。
だって、自分自身の一部とどうやって内部で分裂して戦うわけ?
エネルギーの浪費にすぎないのよ。
そのくらいだったら何もしないほうがいい。
少なくともエネルギー消費はまぬがれる。
この惑星的なエネルギー危機に及んで、まだまだ、戦うことによって問題解決を図ろうとしている人類は、なんておろかなのだろう。
自分の心の中の戦いを放棄することから始めてみようよ。
「戦わなくいいんだよ。好きになったらいいのさ」
単純な話。
シャドーは戦えばどんどん強大になる。
名前を呼んで抱きしめてやれば消えていくのはゲド戦記で見たとおりだ。
神経生理学的にも証明されている。
欠点やいやなことを克服しようと意識をそちらに向けることによって、そのような性向はエネルギーを与えられ、さらにそのような特徴が定着していくと言う。
すべてをいとおしく抱きしめて。
せめて、ただそこにそのまま一緒にいて。
戦いで解決することは何もないのだから。
ああ、だからこそ、スピリチュアリティという発想がでてきたのに。
おんなじことしてるよ、私。
つまり、宗教家は理想に燃えてて、つい自分の世界観を広げたくなるから、いわゆる宣教をしてしまうんですよねえ。
私はこのようにして救われた!
なんという幸せ!感謝!
泣いてる皆様、大丈夫だから、ほら見上げてごらん、こんなにきれいな星が耀いてるよ!
って、おせっかいしてしまうんだ。
大好きな大切な人だとますます熱心になってしまう。
あああ
それが実は、敗因だったりします。
幸せになりたくない?びょうきじゃ~ん
という世界観は、どこから来たのかわからないけど、私の前提になってます。
ああ、しかし、悩みたい人は悩んでいいっていうか、変な言い方だけど、苦悩が好きな人もいるみたいで。私的に見たら、好きなんじゃなくて、もともとはそうじゃなかったはずなんだけど、癖になってるだけだと思うのですが。どんなに有害なものでも癖になるとそれをやめるほうが辛いのはタバコとかお酒とかで証明されてますものね。反対にどんなにいいことでも、新しいことを始めるにはストレス(再適応という意味の)がつき物ですからね。
しかしですねえ・・・
おせっかいと個人的価値観の尊重、その加減が難しいんです。
そっか、死にたいのか、それはあなたの生き方だから尊重するよって、態度取れますか?
冷たく突き放すのではなく、愛しているからこその尊重?めちゃくちゃきついですよ。
難しすぎる、どうしたらいいの?
そういうときにはもう、祈るしかないのよね。
人々のスピリチュアリティを研究する時に、人々がどういう事をスピリチュアルと言ってるのか、どういうあり方がスピリチュアルだと言ってるのかを調べる社会学的な調査法がある。要するにスピリチュアルという言葉の使われ方を調べるわけで、spiritualityそのものをしらべようとしているのではない。
もう一つのやり方は、今ここの、目に見える現実的な価値を超えた理想を目標として生きていくといった、人々のspiritualityのあり方を調べる方法だ。この方法では、スピリチュアルという言葉を使うとまずい。
私は後者の研究に関心があるから、どういう言葉を使ったらいいのか非常に迷う。
わかりやすい神仏は御法度だし。スピリットもトランスパーソナルも変な誤解があるし。
一者や宇宙とか、科学的に響きそうな秩序・情報・エネルギーなんて言ってもなかなかわかりにくいし、それが何を表しているかを説明するのがまた非常に難しい。超越というのが一つのキーワードだと思うけど、実際のところこれは体験のない人には理解不能な概念のような気がする。つまりその人の状況に応じた地上的解釈にとどまってしまうのだ。それが悪いと言う事ではないと思うけど。その方がけっこう健康的でいい人生送ってたりする。
そうだ、別にみんながさとりの境地にいく必要もないわけだ。
それぞれの場でそれぞれのspiritualityがあっていいのだ。
とすると、地上的ないい生き方してるっていうのも、やぱりspiritualってことに含まれるのかもしれない。別に何の気づきとなくても、淡々といい人はいる。既に当たり前になってるから気づきとことさら言わないだけかもしれない。そういう人こそが結構本物spiritualなんだろうなと思う。
世界調査でも、自分のことをけっしてspiritualだと思わない人の方が supiritualityが高かった国があったけど、日本もきっとそのパターンだろう。
同じ言葉を使っても、含む意味内容は全然違っているのだと思わざるを得ない。
しかし、科学は言葉を媒介とする。数字や図式でも可能だけど、その説明にも言葉が必要で、そこで使う言葉の一つ一つの定義から始める学者家業は本当に手間ひまかかってしようがないけど、やるしかないのね。
ふゅ〜
英国の精神科医が面白い論文を発表した。
http://www.scribd.com/doc/5638725/Can-pharmacology-help-enhance-human-morality
つまり,精神的に安定させたり認知能力を向上させたりする方向で,善良な人になるように薬物を既に色々なとこで処方しているし、もっとするべきと言う主張だ。
これに対しては、人格を操作するのかとか、道徳的って状況で異なるのにどうやるって言うんだなど色々な議論が巻き起こってるけど,あたしは賛成派。
人を無意味に傷つけたり非社会的な行動でどれだけたくさんのダメージが起きて苦しんでいるのかを考えてみたらいい。もちろん自然療法とか免疫強化の方が薬物療法より勝ってるけど,そうも言ってられない場合だってあるんだ。
精神安定剤とか,睡眠薬とか、不安やうつを沈める薬だって,頼るのは危険だけど,必要な場合だってあるのと同じだ。
私は、道徳心欠如,つまり人を傷つけても平気,あるいは快感を感じるなんて言うのは,人間本来の姿ではなく,病気か未熟さの現れだとずっと主張してきた。つまり,病気で歪んでるのだから直した方が幸せなのだ。カウンセリングとかでのんびりやる方法もあるけど,どうしても虐待がやめられないと言う重症者には,ぜひ薬で楽にしてあげて欲しいのだ。
痛み止めとか熱冷ましを飲むのだって、本来はそういう時はぶっ倒れて寝てるのが一番でそうしたら治るんだけど,大抵の人は仕事とか適応のために薬を取るでしょ。
心だって,脳機能の一部つまり物理的反応としてとらえる側面で言ったら,物理的にできる事だったらしたらいいんじゃないかと単純に思うのだ。
問題は,実は薬でもどうしようもない側面があるってこと。
これも事実。
アヤシいと思われるけど,やっぱり,スピリチュアルな側面が存在するからだ。
科学で解決できる事は恩恵を素直に受けたらいいと思うんだけど。
ビックバンの実験どうなるのか,ワクワク。
日本語でスピリチュアルって言うと、なぜか癒しとつながる事が多い。
スピリチュアルヒーリングってことになるんだけど、なんかアヤシいにおいがする。
NIHのドッシーらが実証してるように,次世代医学ではあるんだろうけど、スピリチュアルがいやしとつながると,なぜか非常にアヤシくなる。
世界的トレンドと言っていいかどうかわからないんだけど、いわゆる正統派学術団体は、スピリチュアルを語る時には非常に慎重で、いやしや異次元やミステリアスな側面には触れずに排除する傾向がある。その努力があってはじめてここまで科学的方法論のメスが入ってきて実証データが蓄積されてきた事を思うと,やはり,慎重で禁欲的な態度は重要だと思う。
ということで、私自身も、研究の仕切り直しをしなければいけないように感じている。
このような自由なエッセーと科学者としての発言を分けていかないといけない。
と言うわけで,天使語は、近いうちにペンネームに切り替えようと思ってます。
何がいいと思う?
やっぱ,なじんでる麻倉アンナかなあ。
星野真理って人もいるんですが。
日本のスピリチュアリティ研究の文献レビューを概観したら、ちょうど米国の20年前と同じような状況だねえって言われた。
確かに、20年前、好奇心で祈りの効果って言う文献を探索したとき、一つか二つしかなかった。でも、あったっていう事に驚いたんだけど。今だったら、実証研究が、学術データベースで何千件もヒットするもんねえ。日本のは知りません。ないんじゃないのまだあまり。
日本のスピリチュアリティに関する実証研究データは、ほんと、少ないんですよねえ。あっても、お年寄りとか患者さんとかなんで、せいぜい。
普通に健康な青少年対象となると、マジでほとんど自分のデータしかないって感じ。いろいろ頑張って調べたけど、今だに、指折り数えるほどしかないです。英語の研究報告は何万件単位であるのに、です!
そういう環境で、今までスピを測定しようとして、何アホな事やってんの、測れる対象じゃないものを測ろうとしてるとかさんざん言われて。(今でも言われてます)
いくら欧米でこれだけ実証研究がされてると言ってもそれは偏ってるとか言われて。
まあねえ、それは確かに一理ありますわ、認めますが。
でも、今は世界調査が行われて、ヒンズー教もイスラム教も仏教も、あるいは土着の宗教的伝統を持った、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中東の国々まで懸命な調査が行われて進んでるのよ。
でも、日本のデータがないのです。なぜかわかる?日本人は慎重派ですから、簡単にのらないのですよ、トレンドに。この国は本当に難しいわ。
なぜ遅れてるのか。
第一に英語の識字率が低いから、国際的な情報がなかなか入りにくいんだわ。これだけネットが発達してリアルタイムで情報が手に入るのに、本当に英語が使いこなせる人は他の国に比べてすごく少ない気がする。学校の語学教育のせいかしら。だから、情報がすごく偏ってるんですよねえ。
第二に、これだけ情報化が進んでいるのに、学術データベースなどのIT化がすごく遅れてるから。携帯を持ってる人は多いのに、学校とか病院とか官庁とか保守的なとこは、ITの苦手なアナログ好きな人がきっと反対してるんだわ。だからすすまないのよねえ。
まあ、そうやって、鎖国みたいに色々な制限があるから、日本は世界でもすごく独特なのよね。はいってきてるのは表面的な変なのばっかりって感じで、危ういなあ。
20年たったらどうなっているかわからないけど、いいとこはどんどん取り入れたいですよねえ。先端研究者は苦労します。ま、しようがないわ。好きでやってるんだし。
がんばります。
日本のスピリチュアルは、トランスパーソナル系の西海岸風なのと、ヨーロッパのスピリチュアリズムが,神道など土着の文化に混じっているような感じがする。
ミッドウエストにきて思うのは、この伝統的クリスチャン文化にある、実際的な隣人愛のスピリチュアルの偉大さだ。日本には残念ながら、この要素があまりない。
もちろん日本人は親切なんだけど,全くの他者や外人,見知らぬ人を隣人と見なしてない傾向があって、自分たちだけってなりがちなんで窮屈なんだ。
教会離れが激しいと言われてるけど,この田舎町(失礼)ではまだまだ素朴な信仰にもとづいた自然な親切な行動が当たり前で。
困った人を見て放っておけないらしく。
教会主体のプロジェクトで、サマリア難民を何千人単位で受け入れ,素敵な公園やコーヒーショップもついた高層マンションを提供し、就業補助や英語教育などがシステマチィックに進められている事など,あまり世界に知られていないだろう。でも,こういう人たちがどこにでもいるのだ。
フィラデルフィアのクエーカー教徒は、戦争に静かにプロテストして、戦地に赴かず、収容所に入れられた日本人開放に懸命に尽くした。
もうすぐ911だけど、イスラムの方達を保護して暖かく迎えるイベントだってあるのだ。
美しい話はたくさんある。
でも,している人は話さない。
当たり前の事をしてるだけだからって。
悲惨なニューズのかわりにこのような美しい話をニューズとして流したら,世界がどれだけ変わっていく事だろう。
これこそがスピリチュアルの神髄だと私は思うのだけれど。
良い木かどうかはその実を見て判断する、というのが、ジェームズ流のいいスピリチュアルかどうかの見分け方らしい。
とにかく彼は,実際に役立つかどうかで判断するという,実際的な立場をとっているので。
功利主義とかプラグマティズムと言われるこの考え方に立つと、見えないものを大切にしても,見えるものにいい影響がない場合には問題ありということになる。
頑張ったんです・・・そうかでも,成果が出てないんじゃダメだよ。
と言うわけで,これは冷たいように思われるけれど,ある意味,非常に公平で客観的で健全な評価である。つまり,頑張ったんです,だけじゃあ,実際に何をどうしたのか分からないからねえ。自己申告を信じるしかない。
これって、優しいようでいて,不透明でバイヤスがかかりやすい。つまり,同じ事をして同じことを言ったとしても,好きな人の場合にはそうか,よく頑張ったねえ,気が合わない人の場合には、困るんだけど,これじゃあ。となるにちがいない。
もちろん成果もプロセスも大切にされるべきだけれど、日本はどちらかと言うと不透明で主観的評価が重んじられる傾向がある。
だからみんな,仕事の成果よりご機嫌伺いの方に時間とエネルギーを費やすんだろう。
それはそれとして、スピリチュアリティに関しても、見えるところで成果を上げる事、たとえばお金が儲かったり成績が上がったり商売が繁盛したりっていうのは,結構な事だけれど、それはあくまで結果だから,それを目標にしたら非常におかしな事になる。
だからそれに対抗するように、清貧とか試練とか修行とかいうような、外的成果を否定するようなスピリチュアリティ概念も生まれてくる。
どちらも極端だけど、まず,一番大切なものを求めると,結果がついてくるから気にしなくていいと思う。スピリチュアルな人は結果に対して何も執着はないから気にしないんだ。
気にしないと言うのは,それを強調したりもしなければそれを卑しい事のようにあつかったりもしないと言う事で。
つまり、ああよかったねってにこにこしてるだけ。
そうじゃなくても、にこにこしてるし、きっと。
普遍的なスピリチュアリティってなんなんだろう?
宗教とは違う,信仰とも違う。
というのは、そのような枠組みで語る時には、それになじみのないひとには受け入れられないから、普遍的ではないからだ。
道徳や倫理・人徳でもない。
というのは、それはやはり意識化された個人や社会という次元にとどまっているからだ。ここにとどまっている限り、土着の文化と言うフィルターがどうしてもかかってしまうのだ。
言葉で説明しようとしたとたん,使っている言語的な制約を受けてしまう。
コンセンサスが一番得られているのが、「つながり」「人生の意味/目的」「よりよく生きる」かな。それを説明するのに、自分たちになじみのある神やら仏やら天使やら菩薩やらという超越的な概念を表す言葉を使ったとたんに,その文化にいない人からは拒絶される。
超越と言う言葉だって、仏教やヒンズー教こりこりの人には退けられる,だって,個人を超えるのではなく,個人の内面深く探求するものだからと言うわけで。
しかし、じゃあなんて言ったらいいのだ?
京都学派のだれだったっけ、下降的超越って言ったけど,それって,大地に戻るって言うニュアンスが強い感じがしないかなあ。下じゃないんだよね。上でもないけど。
じゃあ、どこ?
奥だよ奥!!
英語だと深さって言うしかない,そしたらやっぱり,下みたいよね。
だから物理モデルが登場するのだ。
次元をもう一つ付け加えたらいいだけなんだけど。
3Dじゃなく4D。
パワポで、どうやったらかけるんだろう・・・
とりあえず時間軸を超える、と言う事で,動画でなんとかかけないかしら?
世の中にはネットを使う人種と使わない人種がいる、というくらい、両者の世界は違う。
ブログを毎日するくらいの私はもちろん、使う人なんだけど、コミュニケーションがほとんどネット上で行われ、情報収集も自己表現も仕事も遊びもほとんどネットが媒介になっていて、ネットがない生活というのが想像しにくい。
あまりにネットに慣れてしまうと、じかにあって話すとか、自筆で何か書くとかいうことが億劫でなかなかできなくなってくる。絵だって絵筆やクレヨンではなく、マウスでしか何年も描いたことがない。
ネットを使わない人、パソコンを使わない人というのは、何も、こういう文化になれていない高齢者や途上国の人ばかりを言うのではない。この高度に科学技術が発展した文化の中で、自筆や息づかいや肌触りにこだわり、ネットによるコミュニケーションを信用しない人たちが居るみたいだ。
実は私にとってそういう世界の人たちを理解するのは非常に難しい。
でも、大変なことに、大好きな仲間にもこのタイプの人たちがかなり居るのだ。
あるパソコン嫌いの人は、疲れるとかからだの調子がおかしくなるという。でも、こうやって人が起きていない時間帯にしか連絡が取れない私と話をしようとしたら、ネットを開かない限り、職場や住む場所が一緒ではない人とは、数年に一回くらいしか話すチャンスはやってこないのだ。
来年の!クリスマスのアポ予約を今からしておくって言うの?(そんな~~~~涙 )
携帯メールを日に50回ってくらいにリアルタイムでのやリ取りに慣れている私にとっては、メールの返事が数時間も来ないと、そのメッセージは不必要なものになる。数日こないとなると、もう友人かどうかもあやしくなるほどかなしい。
仕事のメールも、返事が3日以上滞る人とはやっていけない。
一週間以上こなかったらその企画は自動的にボツだ。
レポートだって手書きでの提出は認めてないし、遅れて出すときはネット上での提出以外認めていない。
(重要書類は書留とか宅急便ではなく、まずネット上のファイルで送ってください。移動が多い私が受け取るのはいつになるか保障ができません。先日もいくつも差出人に送り返されていた、ごめんなさい。電話もほとんどの時間は出られないし、登録番号以外からのにはまず出ないし)
こういう私は、いわゆるスピな人やエコな心優しい人たちとのコミュニケーションが非常にとりにくくて参ってしまう。
そういう人が電子媒体を苦手とするのと同様に、私は直接的なコミュニケーションを苦手とするからだ。
直接会うことを求める人は人間としての命や表情・声・視線などを重んじていて、そこから愛を感じるのだろう。電子媒体の好きな人は、ネット上に現れるエッセンスにそれを感じるのだろう。ネットがいいのは、情報を自分の好き勝手に取捨選択できるのだ。自分にとって都合のいい情報だけを永久保存して繰り返し経験できるのだ。
これは実はイメージの世界に似ているのではないかと思う。保存場所が、脳内か、ハードディスクかメモリースティックかという違いだけなんだ。
これからますます、電子媒体に移行していって、たぶん私は近い将来、重くて紙でできた本なども読まなくなっていくだろう。論文なんかもほとんどファイルでしか保存してないし。(印刷物を置く空間や探し出す時間ががないからだ)
今日の日記は、電子媒体が苦手な心優しい繊細なあなたに届けたい、私の弁明なんだけど、残念ながら読んでいただきたいあなたには決して伝わらないことを思うと、むなしくなってくる。
何がいけないのか。
そう、忙しすぎることが原因なのだ。
ごめんなさい。
スピリットの中で出会っていることを信じています。
これは何か、危険なにおいを発しながらも特別な憧れを持たせてしまうものらしい。
トリップなどとも言うように、意識状態が今ここからどこかに飛んでいってしまう状態だ。
寝てるときも、空想にふけっているときも、一種の変性意識だといえるだろう。
何かに没頭してる時だってそうだ。
一心不乱になって、時間がたつのを忘れてしまうっていうのはよくあることだ。
ここに意識がありながら変性意識を楽しむのがきっと、上級者のテクニックなんだろう。
何も難しいことはない。
現実を生きながら、目に見えないけど確実に存在している光と愛の中心を常に忘れないで行くこと、それだけのことなんだ。
もし難しいというのなら、たぶんそれは努力してがんばって達成するという方向ではないということがあるだろう。
薬やからだを極限まで痛めつけたりして人工的に変性意識状態になるのは、なんだかエゴが支配しているようで恐い。
すべてをお任せして漂いながら、淡々とお掃除でもしてるのが一番いいと思う。
汚れを落としながら、磨きながら、愛を実現していく中で、こらえ切れない喜びがあふれてくるに違いないからだ。
このエクスタシーこそ、みなが求めている変性意識というものではないかと思ったりする。
これほど甘美な経験はないから、夢中になってしまうのもわかるけど、それは青い鳥のように、今ここの日常に埋め込まれていることでしかないのだ。
肉体は動物的で低次元であって、精神は高尚なものというイメージがあるかもしれない。
もしそうだとしたら、自意識のない動物は人間より劣っているから人間の都合でコントロールしていいということになる。
この理屈で行くと、植物なんかもっと低次だから好きにしていいということになる。
もっと行くと、命のないもの、山や川や大地なんかは、人間のやりたい放題に扱っていいということになる。
本当にそうだろうか?
この理屈で進んできたつけが、今やどうしようもないほどの地球環境汚染となって猛威を振るっているのではないか。
大地は削られても文句を言わない。
花はむしられても、しおれるだけで攻撃をしない。
動物だって、肉食されるときには観念しているらしい。
無抵抗の存在をいためつめてきたツケは、コントロールしきってきたつもりの人間に降りかかってくるのだ。
同じことが、心・魂・体にもいえる。
体はなかなかものをいわないし、魂なんかずっと沈黙のままである。
うるさく騒がしいのは心だけだ。
心の要求するままに、つまり自分が考えることにしたがって肉体や魂をコントロールしようとした結果は、病気やむなしさや、理由のわからないうつ状態などとなって現れる。
追い詰めていくと、沈黙のまま存在が脅かされていくのだ。
魂の喜びや体の喜びに耳を傾けなければ。
手遅れになる前に。
読売新聞の調査なんですが・・・
調査日:2008年5月17-18日
対象者:全国有権者3,000人(250地点、層化二段無作為抽出法)
方法:個別訪問面接聴取法、回収:1,837人(61.2%)*
Q 最近、自分の前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりに
よって、心の安らぎを得る「スピリチュアル」が関心を集めています。あなたは、
こうした「スピリチュアル」に、ひかれますか、ひかれませんか。
答え 1.ひかれる 20.6 2.ひかれない 75.4 3.DK.NA 4.0
あたしは・・・
大いに、自分からひきました!!
この表現に↓
自分の前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりに
よって、心の安らぎを得る「スピリチュアル」が関心を集めています。
そうなんですか・・・
びっくりしたな・・・
みんなそういう風に思ってたんだ・・・
誤解されるわけだ・・・
頭のかたい私は、もう一度言っておきますが、「スピリチュアル」ではありません。
spiritualですけど。
魂を忘れてきちゃった・・・・というフレーズが、「モモ」にあるらしく。
ぎくっとした。
私のことである。
からだに魂が追いついていけてない感じ。
置き去りにされた魂は引き戻そうとして、気がついたら意識がなくなっている。
(つまりうたたね、あるいは変性意識状態、同じことだ。)
うつろな心を引きずって、足だけは地上を移動している、あちらこちらへ。
私の心はどこに行ってしまったの?
立ち止まって追いついてくるのを待たないといけないのよね。
でも、地上の時間はどうしてこんなに早くすぎていくの?
ああ、あまりにもうつろな。
魂の抜け殻とは、こういう状態を言うんだろう。
それに気がつくのが恐くてますます加速してしまう、末期状態だ。
こういうときに、人はよく病気になる。
強制的にストップさせられるのだ。
それに感謝しないのは大ばか者。
魂のケアーを大切に。
病気は信仰がないから起きるんだ?
なんてかわいそうなことをいうんだろう!
生まれつきの病気が自分のせいだって?
自分で選んできたんだって?
自分の過去生のせいだって?
覚えがなければ、自分の先祖の罪のためだって?
こういう考えこそ、病んでると思わざるを得ない。
と思えば、こんどはまた、障害や病気は天使の証だって?
克服していく姿が人に勇気を与えるためにここに現れただって?
すべてのことに霊的な意味があるとするのも、すべてが科学で説明できると考えるのと同様に、いや、たぶんもっとたちが悪い「霊的な還元主義」だ。
それで幸せな気持ちになる人はそれでもまだいいとしよう。
事実と異なっていても、一時的な救いになるのは確かだ。
しかしそれが恐怖をもたらし、苦しみをもたらすとしたらやめたほうがいいと思わないか?
その結果、不健康な考えから心が病んで病気になっていくというほうが実際は多いような気がする。
検証してみたわけではないけど。
病院死の原因が、病のせいではなく、薬害が原因である場合が多いのと同様だ。
何が真実かということは私は問わない。
過去生の影響かどうかなんて確かめようがないからだ。
いくら霊能者が言ったとしても私はそれが真実だとは思わない。
主観的な語りにすぎないからだ。
真実かどうかは誰にもなんともいえないのだから、そうなるとその考え方が幸せになるのに、元気になるのに、役に立つかどうかが気になるだけだ。功利主義だ。
そうすると、「スピリチュアル」が、「正しい」かどうかが見えてくる。
そうなると、この世的な成果を基準にするしかない。
でもそれは、目に見えるものとは限らないのだ。
スピリチュアルでなくても、心の中に起きることは目に見えない。
でも、こころの健やかさ、晴れやかさ、透明さ、すがすがしさは、行動に現れるから、多くの人にはわかるのだ。
ものごとの善い悪いはなかなか難しい。
立場によって正反対になることだって起こる。
でも、健康か不健康かはもっと単純。
基準は気持ちよいかどうかだから。
信じなさい信じなさい、ひたすら信じなさい。
確かに、信じたら物事がそのように動いていくことが多いし、願いがかなわなくても、救われていると信じることができたら確かにおめでたく幸せなはずだ。
でも、現実や理性の判断を無視して信じることは出来ない。
それを捻じ曲げて信じようとすると、心が反乱を起こす。
だから、救われたい人間は、信じられる根拠だけを集めてくる。
何とかそれで解決しようとする。
そして、例外は無視。
というか、信じる時点で盲目になっていて見えないことが多いようだ。
これは実はひじょうに危うい。
救われるどころか、大きな落とし穴に投げ込まれるようなものだ。
このような欺瞞でどれだけの人が熱に浮かされ現実から解離していくのだろうか。
切ないほどに救いを希求してるのだけれど。
知的になればなるほど疑い深くなる。
物事がそれだけよく見えてくるからだ。
知的に詰めていったとき、ある時点で反転が起きることがある。
分析して細かく詰めていた先に、光があってそのまぶしさに目をやられるのだ。
その光にも目がなじんできたら、また見えてくる。
信じることは、この決して終わりはない繰り返しの疑いのプロセスなのだろう。
単純に信じられないって落ち込まないで下さい、だいじょうぶ。
理性が発達してるということですから、すばらしいですね。理性万歳。
信じることで救われているあなた、おめでとう。
無理して疑わなくてもいいですが、理性をごまかしているとツケが着ますよ。
深くゆるぎない信仰は、疑い、吟味が細かくなれはなるほど生まれてくるものだから。
小さいときから頭痛もちだった。
小学生の時にはすでに、頭痛があるのがアタリマエで、大学生になってから頭痛がないという経験をはじめてしてみて、世の中ってなんて美しくすがすがしく晴れやかなんだろうと思った。
頭痛といっても馬鹿にしてはいけない。
私は3度救急車で運ばれ、2回入院したことがある。
駐車場のマイカーまでいったところで倒れこみ、そのまま朝まで動けなくて過ごしてしまったこともある。電話もできず口もきけない状態になるから助けも呼べないのだ。
あまり痛みが激しいと、ありがたいことに意識がなくなる。
こういう、肉体的に激しい頭痛を知っているから普通に話もでき、歩ける程度の頭痛はそうは気にならない。
でも、何日も続くとさすがに気分もめいってくる。
このメランコリックさは、うつとは少し違うのだ。
何か気になることがあるわけでもなく、表面的にはいたってノーマルに有意義に仕事をしていたり、日常会話を楽しく友人や家族と交わしていたりする。
そう、メンタルには大丈夫なのだ。
でも、何かがおかしい。
JOYが湧き上がってこないのだ。
こういうことをいうと、それ普通じゃないですかっていわれたりする。
私にとってはぜんぜん普通じゃないのだ。
何か黒雲に包まれたようなわけわからなさが、精神の奥のほうに巣食っているのだ。
原因?
わかっているような気もするけど。
究極の孤独感。
スピリットはどうしたのっていわれてもね・・・
どうしたんでしょうね・・・
探ってみて少しわかってきたことは、この変な頭痛は、社会適応というやつをがんばって、自分らしさというか、自分の欲求に素直でなかったことに起因しているようなことだ。
誰にどのように評価されてもされなくても、人間って自分が自分らしいことをするしか本当の意味での幸せや充実感はないんだなあとつくづく感じた。
私の場合はそれに極端に敏感になっているみたいで、人から要請されたり、枠にはめられたりすることでは生きていけないみたいで。
なんともわがままなやつだとつくづく思うけど、仕方がない。
私は私の生き方しかできないんだということを痛感した。
文字通り、痛みの中で感じたことだ。
でも、社会的に、自分らしくすることが完全に許されているわけではないから、やっぱり、頭痛は続くのだ。
わたしの場合は、クリエイティブなことをするしかないのだ。
芸術的に価値があるかどうかなんて別問題だ。
社会で受け入れられるかどうかも関係ない。
私が生きていくためには、どうしても必要なことなのだ。
それを禁じると、窒息しそうになっていのちがなえてしまうのだ。
生きているという感じがなくなっていくのだ。
そういうときには、喜び体験を積み重ねても、感謝を数えてみても、どうすることもできないむなしさがつきまとってしまうのだ。
でも、表面的には何も問題がないのだから、他人に理解してもらうのは難しい。
肉体的、精神的、社会的にこんなに恵まれていて、何が問題だって言うわけ?
究極の孤独。
これがスピリチュアルな頭痛の原因なのかもしれない。
一人一人がみんな違っているからこそ、面白いし、惹かれあう。
でも、違いを強調していたら、子どもっぽい人たちは競争して対立してしまう。
少し成熟した人たちも、何かしら疎外感を感じるのは否めないだろう。
みんなが違っていていい。
というか、いいも悪いも無い.
それが現実だ.
でも、これを突き詰めると、人は決して分かりあえることなんかないというニヒリズムに陥る.
これは結構つらい事だったりする。
だからみんなひとつだ、世界はひとつだという幻想に憧れる。
みんな本当はひとつになりたいのだ。
歓喜の中でその幻想に酔いしれる。
醒めて日常に舞い戻ってきた途端、他者とくっきり隔てられたこの肉体を実感する。
この地上において究極に、私は一人なのだ.
一人で生まれでてきたのだし、一人で去っていくのだ.
でも、だからこそ、あちらではきっとひとつだというおぼろげな記憶と憧れでもって、スピリチュアルを求めるのだろう。
スピリチュアリティの3因子を車にたとえると・・・
意志はハンドルである。
みなの誤解は、動きを加速したりストップしたりするための、アクセルやブレーキのように思ってしまうことだ。違うのだ。意志は行き先に照準を合わせるだけなのだ。つまり方向を定める、選択する。
怠け者は面倒くさいから、ハンドル操作を最小限にして、惰性で同じ方向に行くだけだ。
喜びはガソリンだ。
エネルギー源なのだ。これが無いとどんなに立派な車も動かない。チャージするにはガソリンスタンドで止まって給油しないといけない。混じりけの少ない純粋なハイオクは高いけど高性能だ.
気づきはナビだ.目的地を指し示すと同時に道を間違えたときにはすぐに修正し、拡大したり縮小したりして現在地を示してくれる。ついてない車もある.そういう車は道に迷ってうろうろしてしまう。大切なんだけど、やっぱり走りながら操作するのは危険だ。間違える事もある.これもやっぱり、止まったときに操作した方がいい。なんか変だと思ったときには早めに確認した方がいい。目的地を間違って入れたら大変なことになるから。分かってても、指示に従ってしまうのだ。それ程ナビの影響は大きいのだ。
車を良く機能させ長もちさせるには、休ませたり定期的なメンテナンスが必要だ。
高性能のスポーツカーは、たまには高速で走らないと調子が悪くなる。
同じことを軽自動車ですると危なっかしい。
今日も安全運転でよい一日を。
しかしガソリンの高騰はきついですね・・・
エネルギー危機は、地球も人間も同じです。
西洋あるいはキリスト教が超越性を志向して上昇し、東洋あるいは仏教が下降的超越によって身体性に回帰すると区別する立場に異論を唱えたい。
スピリチュアリティ、聖なるもの、ホーリー、ホリスティック、全体性、包括、健康、は語源的に皆つながっている概念だ。
とすると、スピリチュアリティの二つの位相、「聖なるもの、超越性」と「全体性の回復」は語源的にも同義とならないか.
つまりスピリチュアリティは、人間のロゴス的発想である働きとして上昇する方向と、上から降りてくる恵みを無条件で受け容れる喜び(これはロゴスに対してエロス的発想と呼んでもいいだろう)の双方向のつながり回復なのだ.それに対する永遠性の気づきがあってこそ、至福が達成される。
すなわちそれが喜びのスピリチュアリティというわけ.
これはスピリチュアイティ3因子論を支持する。
3因子?意志の働き.喜び.気づきです.
スピリチュアリティ診断テストでおなじみでしょ.
喜び現象を分類しないといけませんけど、どれもすべて免疫を高め生命力を増しますからいいものに違いないですが。
1.喜びの喜び:反応として起きてくるポジティブな感情・情熱
2.意志の喜び:自分で選択していく意味とか感謝とか
3.気づきの喜び:すべてを包み込んだエクスタシー・至福
4.包括的喜び:123をすべて含む光そのもの
おお、論文がかけそうだ。
しばらくそっちに専念します。
悪しからず.
携帯でもSQ Lifeメッセンジャー・ブログが閲覧できます。
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