尾崎真奈美の天使語同時通訳します

世界の光と美しさ カテゴリーの一覧

自分で死を選ぶ

どんなに強い人でも、痛みの多い人生を歩んでいくと、ふとやめたくなってしまうときがあると思う。
もう放棄したいとか。
ゲームオーバーにしてもう一回やり直したいとか。
せめて永い眠りについて休憩したいとか。

私は自殺はよくないと思っているし反対したいけど、その気持ちの一部は少しわかるような気がした。どんな苦痛や苦しみでも自分から選択すると耐えられるものなんだ。自分の意志に関係なく翻弄され、突然死に襲われる恐怖と悔しさ名残惜しさってどんなものだろう。
神様はよくしてくれたもので、そういうときには苦痛は長引かない場合が多い。

人はみな、一人で死ぬ。
愛する人に手をとられ見守られて死ぬことができる人がどれだけいるだろう。
ラッキーな人だと思う。
でも、逝ってしまうのは自分だけだ。

孤独死を想像してみた。
愛する人を呼ぶ声も出ず、助けを求めて動くこともできず、一人苦痛の中で意識が遠ざかっていく。
このような瞬間は誰にだっていつだって起こりえるのだ。
そのときに、たった一人で誰にも知られずに逝くことのくやしさや無念さは想像を絶する。

だからこそ、覚えていてほしいことがある。
人間の持つ記憶力・想像力という偉大な能力だ。
いつ、どこでも、あの言葉、あの眼差し、あの手のぬくもりはあなたのものなのだ。
思い出して味わうだけでいい。
つらいときには痛みの奥でそっと気がついてほしい。
ほら、今、ここに私はいるよ。

天邪鬼は、ただ、ただ、自分の意志で生きていきたい!それだけの話なんだ。
それほど、意志に反して何かをされるのは苦痛なんだ。
でも、だからといって、自分で死を決めないでほしい。

全部自分で決めているつもりで、でも全部大きな流れの中で流れているだけなんだ。
それに気がついたらそのおきな流れにのったほうが楽だって見えてくるよ。
自分の意志をそっちにチューニングするだけでいいのよ。

いつだってどこだって一人だけど、独りかどうかを決めるのは自分の思いだけだから。
ほら、想像してごらん。

愛してるよ。
いつもずっと一緒だよ。
つらいときにそばにいるって当たり前じゃないか。
いつも祈っているよ。
大丈夫だよ。
独りじゃないよ。

お隣から、故郷から、
職場から、学校から、
ずっと離れた異国の地から、
過ぎ去ったあのころから、
遠い昔の思い出から、
生まれる前の願いから、
そしてあなたを待っている未来の恋人から、
宇宙の果てから、
あなたを包み込む柔らかな毛布のような愛があなたに届きますように・・・

2010年冒険のはじまり

冒険というのは、サバイバル能力のある人が念入りに計画したり情報収集したり準備をしてから挑むことだと思う、常識的には。
しかし、準備がなくて道具も情報も限られているときにこそ野生の血が騒ぎだす。

道がなくなるまで行けるとこまで行ってみよう!
という冒険を、とある山奥で、初日の出ツアーの帰りに昨日はやってしまった。

まず、道の舗装がなくなる。
砂利道や泥道になるんだ。
昔の道ってこうだったんだよねって、感慨深くなる。
轍が深く刻まれてて、車体の低いシルビアはおなかをこすりそうになって、ごめんねと言い続けながらゆっくりすすんだ。
轍があるってことは、でも、車が来てるてことだから行けないはずがない、とうのが私の根拠で、とにかくすすんだ。

でも今考えてみたら、もっと小回りのきく四輪駆動のオフロードタイプの車なのかもしれない。
このまますすんで行き止まりになったとき、一番怖かったのは、方向転換できなかったらどうしようと言うことだった。
私はバックはめちゃくちゃ下手なんだ。
こんな、ガードも何もない山道でちょっと油断したら谷底まで落ちてしまいそうな泥道でバックなんか、1メートルだって自信がないよ。
そういう道を、もう既に1キロくらいははいっていた。
念のため携帯がつながっているか確認してほっとしたけど、電池があと一本だよ・・・

急な段差があって、これは絶対車体を傷つけるなと言う地点でいったん止まってみた。
どうしようか・・・
ちょっと見に行ってくる、と相棒が、車を降りて前方に一人走り出していった。
陽気な音楽がiPodから流れてきているのが気分的になんか救われたけど、しばらくたっても戻ってこない。
急に不安になってくる。
もしかしたら、谷に堕ちたんじゃないか?
それとも、神隠しにあったんじゃないか?

意を決して車を前進させることにした。
合理的な根拠はあまりないんだけど、車を離れて歩き出すより心強かったからだ。
どちらにしても、ここでは狭くて車は引き返すことができないんだから。

しばらくすすんだら、道を横切って木が倒れていた。
まさか、この先まですすむって言うの、無理よね・・・
1分くらい考えたけど
でも、行くしかないじゃないか。
シルビアちゃんよ、がんばってくれ!
道の強度を降りて確認し、ドアを開けてタイヤの位置を確認しつつ、ゆっくりと谷の際を通って難関を通過した。
このとき、もう既に私の冒険心は満足以上になっていたんだけど。
でも、いくらいっても彼の姿が見えない。
まさかこんなに遠くまで来てることないだろうと思うけど、とにかくすすむよりほかないんだ。
何かあったらどうしよう。
これからだと言う年なのに。
でも、自分でやりたいことをやっていったんだからいいとするか。
なんて訳わからないことを考えながら、地上にいる私は、鳥でも虫でもいいから、何か、命がある生き物にあいたくなった。

遠くに彼が見えた。
車を止めて手を振った。
どうなってた?どこかにつながってた?Uターンできそうなとこあった?
谷に堕ちたかと思ったよ、もしかしたら神隠しにあったのかとも・・
と言ったら、
「堕ちる訳ないでしょ」
神隠しって言うのはあるのか、さすがに、私の血を引いてる彼だ。

ま,いいや、なんとかじゃ引き返さないとね。
どうしたら車をUターンできるか・・・
ぬかるみっぽい道の幅はなんとかあったから、何度か切り返したら行けるかな、とめどをつけて1センチ単位で何度も切り返して見たのはいいけど、後輪が泥にとられて空回りしてしまった。
ひ弱で何もできなさそうな彼が、杉の木を折って車輪の下にしいて車を降りて押すことにした。
さすがは男の子だ。
一回は何とか動いた。
しかしアクセル操作をちょっと間違えたら、間違いなく車か人が谷に堕ちる。
アドレナリン出すぎだ。

また後輪が、雪道と同じように空回りして滑りはじめた。
ギアを変えてみたり、そっと、あるいは急に踏んでは落とすなんていろいろやってみたけどだめだった。
もう私はいっぱいいっぱいになってしまった。

運転を交替してもらった。
そして自分の足下の泥の固さを確認しながら、タイヤの位置を身を屈めて車の下を覗き込み、あと何センチオッケー、ハイストップと言うことを何度繰り返したことだろう。
神経がこれ以上もたないくらい疲れた頃、車はまわれた。

帰ろうか・・・
晴れ晴れした疲労が心地よかった。
冒険っていいものでしょ?
彼は何も言わずに微笑んでいた。

そう、リスクがあるって、こんなに楽しいことなんだよ!
リスクをとらないで何もしないと、楽しいことも何もおこらないんだよ!
失敗や傷?
だからこそ楽しいんじゃないか!

いろんなイベントが今年も待ち受けているさ。
冒険にしてわくわく楽しむか、見ないふりして通り過ぎるかは君次第!
見ないふりしてても、あるものはあるからね。
来るものはやってくるのさ。

早めに勝負してた方が楽しいぜ!

新しい冒険の年のはじまりに、おめでとう!!

ああ今年も生きてこられた・・・

2009年が終わろうとしています。
何回となく経験している年の終わりだけど,今年もまたしみじみと思います。
こうやって生きてるって,なんてすごいことなんだろう!
太く短く生きるとか、無駄に長生きして人様の迷惑になりたくないという発想もあるようですが、私は元気に太く長生きしたいと思います。
長生きしてると、いろいろなことが実はすべてよいことだったと言うことがしみじみとわかってくることが多いです。

恋の破局が訪れたのは,ああ,この人に会うためだったのかとか。
病気をしたのは,ああ,このような新しい人生が始まることだったのかとか。
破産したのは、ああ、こんなにも人生をじっくり味わうことができるためだったのかとか。

長生きすると、悲惨な経験の途上ではなかなか思い出せない恩寵が実現してくるし,身をもって体験してわかってくることが多いです。
実現する前に命が消えてしまうこともあります。
それはそれで、存在の深いところでの至福をまざまざと実感することができます。

でも,幸せにはいろいろな層があります。
おいしいもの食べたわ〜いうれしい!
お風呂が気持ちいいなしあわせ〜
というのも、なにもそういうものがないところで超越した永遠の至福を感じるのと同じようによいものだと私は思います。

長生きはいいものですけど、そこまで待たないで今ここで喜びを見つけられたらもっといいですね。
その秘訣を三つ教えます。

1。うれしいこと,感謝することにフォーカスしてみる。
2。当たり前だと思い込んでることの中にある,喜びや感謝を発見してみる。
3。喜べるはずがないことを,感謝の視点から眺めてみる。

1から3になるにつれて難易度が高くなりますが、実はそれだけ喜びも深くなるんです。
長生きしたら自然にわかるけど、今見つけて幸せな年越しにいたしましょうよ,皆様。

いつだってクリスマス!

みなさまのところにサンタクロースは来ましたか?
私は実はサンタは好きではありません。
いい子にしてたらプレゼントをやるなんてけちくさいからです。
いい子にも悪い子にも無条件の愛って言うのがクリスマスですものね!
まだ来てない人〜ごめんね・・・
まなみんサンタはばたばたして遅くなってしまいました。
今行くよ〜〜〜
ほら〜〜〜〜、はい!!

クリスマスは救い主の誕生だと言う。
キリストの誕生によってこの世に光がもたらされたと言う。
一年で一番優しい気持ちになる季節で,街全体がイルミの下で微笑んでいる。
そのお祝いは楽しいし、皆で愛を確かめ合うのもうれしい。
クリスチャンであってもなくても,関係なくうきうきして温かい気持ちになる魔法の季節だ。

この喜びは,実は毎日訪れている。
朝も夜も昼も。
楽しい時も疲れきったときにも。
この愛をキャッチしたときに,全身の細胞がざわざわと本当に目覚めてくる。
エネルギーと光に満ちた身体に変容していく。
そして愛と光とエネルギーをまわりに発信していくのがわかるだろう。

あなたに逢えたこの奇跡を感謝します!!
ありがとう!!

冬の日の幻想

そういうチャイコフスキーの作品があった。
今日のイベントのテーマは、冬の日の幻想。

私の冬のイメージはこうなのだ。
すべてが凍りつく空気の中、ダイヤモンドダストが舞って、
透明な光が、何にもさえぎられないまま静かに降りてくるのだ。
音も動きも何もない世界なんだ。
あるのはただ、愛のエッセンスだけ。

だけど、これが目に見えないから、みなはいろいろな幻想を抱くのだ。
天使もそのひとつの幻想。
見えないもの、形の無いものをどうやってあらわすのか、
どう翻訳していくのか、どれだけ忠実に表現できるのか、
を突き詰めて考えると、この、重さのある肉体がわずらわしくさえなってくる。

うまくしたことに、世俗的なデューティが次から次に襲ってきて、私はあちらの世界に浸ることができないようになっている。

日常の中にある神聖さとはいっても、純粋なあの神聖さはやはり、極限の集中を要求するものだったりするのだ。

私の呼吸の一つ一つ、指先から眼差しからすべての動きにならない動きの奥から、愛と光が世界に届いていきますように。

ブラームスのインテルメッツォ118-2
音と動きの奥から
降りてくる
降りてくる

非日常性

毎日のようにひんぱんに起こると、どんなに信じがたいようなことでも日常茶飯事というようになるのだろうか。
生活の一部として馴染んでくると、ことさら排除したり特別視しなくても、あるがままに、「あっそう。ふうん」みたいになってくる。

人間の適応力はすごいな。


しかし、ここに生きているというこの神秘に、私は慣れない。
生かし続けている愛の力に圧倒されてしまう。
その愛を伝えようとタイプするために動いていく指先を見つめながら、
私は言葉をなくしていく。


そして私は
急な階段を駆け上がっていく・・・

意識と美しさ

同じことをしても同じことを言っても、全く違う印象や結果になったりすることがある。
目に見えない世界の想いというか、意識によって作られている世界は想像するよりもっと実生活に影響力があって、世界を支配してたりする。

想いはすべて外に現れる。
魂の美しさは隠せない。
存在そのものの持つ光は、目を閉じていても、遠く離れていても見えてくる。
かぐわしい優しいかすかな香りは世界に満ちている。

それを感じて同調していく時、あなたは最高に美しい。

夢見るエクスタシー

宗教学的に言うとエクスタシーとは脱魂を意味するらしい。
今、漢字変換で「抱っこ、ん〜」とでたので笑ってしまった。
そう、抱っこしてもらった気持ちよさに、ん〜〜んって言うのがエクスタシーだ。

昔はこのエクスタシーという身体的快感を求めて少しずれてしまった人たちが多くいたらしい。
あまりにも気持ちがいいために、抜けられなくなってスピリチュアリティの本質を忘れてしまう人たちもいたらしい。
魂が抜けるとは忘我だし、恍惚だし、解離だし、変性意識だし。
理性は働かなくなるからだ。

私はこれを魂の休息あるいはお里帰りだと思っている。
たまに疲れたときに憩うからいいのであって、いつもだとあまり生産性は上がらないだろう。
でも、これがないと魂がひからびてしまう。

エクスタシー自体を求めていったらからだにとらわれて危険かも知れない。
でも、究極の一体感は究極のエロスでありエクスタシーであることは、実は多くの宗教体験者が語っている事実である。
悟りは気持ちがいいのだ。
修道女になることをイエスとの結婚といい、左の薬指に指輪をはめて忠誠を誓うのは実は禁欲ではないのだ。
むしろ、最高の甘美な体験の保証なのだ。
このうっとりした気持ちよさを経験したなら、肉体だけの快感など比較するべくもない。

スピリチュアリティはすべてを超越して凌駕している。
素晴らしすぎて夢中になるとバランスを崩して危険であることは警告しても仕切れないほどだ。
夢見るのはどうぞ程々に。

エクスタシーは完全に受動的で、求めるものではなく、必要なときに与えられるものであることもお忘れなく。

一つだけ、どうやってこの快感を体験できるかヒントをお伝えしておこう。

この世的な命を精一杯生ききることによってしかあり得ない。
ドラッグを使ったり山奥に一人こもったりする必要はない。
今ここですべき責任を淡々と果たしていくときにこそ、深い喜びの中でエクスタシーに出会うのだ。

求めれば求めるほど・・・

幸福を求めれば求めるほど不幸になっていくと言うのは,巧妙な悪魔の罠なのだろうか。
求めるな、ただ,リアルになることだけを求めよと言われる。
しかしリアルになってすべてをクリアに見通すことで人は幸せになれると言うのだろうか。
求めよさらば与えられんと言うのは、この世的なことにしか当てはまらないのではないだろうか。

幸福は求めてもえられない。
喜びも求めてもえられない。
愛も求めてもえられない。
何を求めても,何もえられなどしないのだ。

ととことんネガティブになったときにふと気がつかされた。

自分自身が光そのものであり、既にその光に包まれている人はその光を認識することができないのだ。

光そのものであるあなたへ!

ただただ,笑って感謝していればいいだけ。
ああそうすれば、他の人にも光がわかるようになるのよ。
そんなにうれしいことって、ほかにある?

今この瞬間の

夢中で走ってたら気がつかないんだけど、ふと立ち止まるといろいろな変化に驚くことがある。
決して止まらない,時の流れ。

泣いていても笑っていても,確実にこの世の時間は過ぎていって元に戻れない。
としたらできることは、最後になってしまうこの瞬間をいとおしみながら過ごしていくだけだ。

目に触れるこの光景は、厳密に言うと刻々に変化していて、もう二度と見ることができない。
愛する人のこのまなざしやぬくもりはこれが最後なのだ。
この優しい声も二度と耳にすることはできない。
もちろん今は録音技術も動画も発達していて,居ながらにいつでもどこでも何でも見たり聞いたりはできる。
似たような体験はあるし,美しい思い出は何度でも蘇り人生を伴走してくれるけれど。

でも、でも,今この瞬間のきらめきや波動は,もう二度と体験できないのだ。
二度と戻らない現実の中に、切なさと安堵感が漂っている。

今日もまた、二度とない貴重な出会いと体験の旅に、いってらっしゃい。

悲しみのかわし方

急に気温が下がって,秋の虫が鳴き始めた。
暑いのが嫌いだから、心待ちにしていた秋なのに。
なぜか物悲しい気分に襲われる。

何か悲しいことがあったと言う訳ではない。
今日も世界はおもしろおかしく過ぎていくのだ。

でもこの空気は、世界の底を流れている冷たい悲しみの涙に共振させて、私は震えてしまう。
説明のできない透明な痛みにしばらく浸ってみた。

ポジティブ心理学者の私はつぶやく。
悲しくなるのは状況のせいではない。
心の構えのせいだ。
かわすにはどうしたらよいのか。
そう,感謝だった。

上を向いて歩こうよ。
涙がこぼれないように。
ひとりぼっちの夜。

世界はなんて美しいんだろう!

最近、科学的方法論や理科系的な発想・モデル化の切り捨ての美しさに魅了される。
科学になぜひかれるのか、それはすごく単純な理由。
美しいからだ。
理論やモデルの、透明感のある澄み切ったきらきらした整然とした美しさ。
これは言葉で表現できない。
かろうじて音楽や踊りになる。

私がなぜ学術研究をするのか。
緻密でも論理的でもなく、調べ物も大嫌いで人に説明するのもめんどくさい人が。
それはただ、真実の美しさに魅了されているにすぎない。
人助けになるとか、社会・人類に貢献したいからなんて言う理由はあとからついてきたことにすぎない。

ただ、美しいからだ。
それは甘美な快感であり、エクスタシーであり、何にもかえがたい喜びの源泉なのだ。
私にとって踊りと研究はそういう意味で同じだ。

面白いことに、理論やモデル構築をしていると、その美しさの感動が身体に広がってくる。
心が震え、涙が伝い、全身全霊でこの美しさを賛美したくなるのだ。

この究極の、深遠な静かな澄み切った世界をどう言葉で表現したらよいのかわからない。
言葉もなく、ただ、私はここにいる。

人生は冒険だ!

人生は冒険だ、地図はないけれど・・・
シンドバットの冒険より

人生の荒波は、避けるよりもわくわく挑戦していくほうがずっと楽しい。
だって、どんなことをしても、ハッピーエンドだってわかりきっているからね。

そうなのよ。
いろんな冒険があったほうが物語としては大成功!だしね。

さて、明日はどんな冒険が待っているのかな?
楽しみにして今晩もお休みなさい。

Going Home.

Going Home, Going Home.
I am going home.

おうちにかえるよ。
おうちにかえりたい。
帰るんだもん!

何をイメージしますか?
遠くの我が家ですか?
田舎のお父さんお母さんですか?
旅をしたり戦ったりして疲れて帰るうちがあるという幸せ。

あなたのおうちはどこですか?

私のおうちはここにはありません。

Going Home というとき、西洋の人は死ぬことを意味するようです。
天に帰る。
来たとこに戻る。
生まれた場所に帰る。
一番安らかに落ち着くほっとする場所です。
すべての人の故郷です。

ドボルザークの有名な帰郷のメロディーを聴くと、私はつい口ずさむのです。

Going Home, Going Home, I am going Home.

故郷からいつもじっと静かに眺めている暖かい眼差し。
遠く離れた異国の地で、今日もがんばりました。
今晩も、故郷の夢を見ながら眠りにつくことにいたしましょう。
ホームシックもまた、切なく良いものです。
おやすみなさい。

雑草なんてないのよ

園芸や畑つくりなどをしていると、これからの季節は元気よく育ってくるいろいろな草取りが大変になってくる。

どれが雑草でどれが植えた苗か知らないで間違って抜いてしまうこともある。
でも、どれもかわいい草花。
誰が雑草とかそうではないとか決めたんだろう?
日本の自然は、優しく、そのまま、あるがままが基本のようだ。
枯れるのも枯れるにまかせてそれを愛でるみたいな風流な精神がある。

山つつじが枯れていた。
水遣りが足りないのかな・・・誰がやっているんだろう・・・
と思わず考えてしまったんだけど、野山の水遣り。
すばらしい自然界が、山や空や川が養っているんですね。

きれいに刈り込んで計算して美しく配置された花で一杯のお庭も素敵だけど、
雑草の生い茂るままって言うのも、なんだかとても見事に自然の美しさを語っている。
新緑の山の美しさといったら、色とりどりの紅葉の季節にも勝るとも劣らない。

山と水と精霊の豊かな日本には、雑草なんてないはず。
みんな優しく共存してるだけだから、抜かないでね・・・

物理学者と詩人の見る夢

結局のところ、われわれはみな、同じ夢を見ているに過ぎない。
ただ、立っている位置、姿勢、かけてるめがねなどが違うだけだ。
物理学者も詩人も同じことを違う言葉で説明しているだけに過ぎない。

私の論文とダンスの間に飛躍があると言われるけど、私の中ではまったく同じことだ。
異次元空間に行ったように思える体験であっても、いつもと少し違った見え方だということで、取り立てていうほどのことは何もない。
その美しさと輝かしさに圧倒されても、驚いたり興奮したりすることはない。
結局のところ、そのびっくりするようなより大きな宇宙の中に「この世」とか、現実とか言うものがはめ込まれているだけなのだから。
現実を超えた世界は、発見されるものではなくすでに存在しているものなのだから。
あの世ではなく、まさにいまここにその輝かしさが、光が満ち満ちているのだから。

それは信じることではない。
すでにあることなのだから。

科学的に証明することでもない。
われわれの存在そのものの大前提なのだから。

カテゴリーエラーだなんてつまんない言い訳はやめよう。
論争は、時間とエネルギーの無駄づかいだ。

ここに存在している限られたほんのわずかな時空の中で、何をしようとしているのか?
われわれはみな、今すぐにでも葬り去られてしまうかも知れない、はかない命であることを忘れていないだろうか?
この一瞬の貴重さを本当に知ってしまったら、感動で呼吸が止まるようなめまいに襲われる。
その瞬間にあなたは時空を越えているのだ。
今、ここに生かされているこの世界の美しさを味わい、楽しみ、至福に浸って感謝しよう。


物理学者も詩人も同じ夢を語っている。


The most beautiful thing we can experience is the mysterious.
It is the source of all true art and science.
アルバート・アインシュタイン

"To see a world in a grain of sand
And a heaven in a wild flower,
Hold infinity in the palm of your hand
And eternity in an hour."
ウィリアム・ブレイク

Supercalifragilisticexpialidocious

あははは
世界一長いこの単語の意味知ってる?
まじめなことばっかり書いてたら、いきなり突然遊びたくなったのよ。

スピの本質は遊びだぞ~~ってケタケタ笑いながら叫びたくなる気持ち、わかる?
笑って免疫上げてお元気で!

アメイジング・グレイス

昨日はイースターだった。
不真面目クリスチャンの私も久しぶりに教会に行ってみた。
この日は伝統的に、日の出とともにお祝いの式があって、みなで朝ごはんを一緒に食べるのだ。

イースターカラーのパステルでデコレーションされたダイニングで、米国アウトレットで購入してきたらしいイースターエッグほか懐かしい食べ物が一杯並んでいた。

そして伝統的に洗礼式も行われる。
洗礼を受ける人たちはその思いをみなの前でスピーチするのも慣わしだ。
今年は10人もの老若男女人が受洗を受けた。

ニコニコしていつも明るい人たちの、壮絶な人生ドラマを聞くことが多い。
表面的にお付き合いしているだけでは何もわからない。
何も言わないでもくもくと嬉しそうに奉仕して、他人にことばかり気にかけている人たち一人一人に、このような経験があったのだとは。
聞くまでは、自分みたいに大変な思いをしている人はそうはいないとか、誰にもこんな特別な大変さを理解してもらえないだろうと錯覚していた。
実際、私自身も苦労知らずですべて順調に来ているラッキーな人だと思われがちだけど。

プライベートなことはみな言わないんだ。

でも、どんなに幸福そうに見える人たちも、いやもしかしたら幸福そうに見える人こそ、そうでない体験を嫌というほど知っているのかもしれない。そうでない体験を聞くたびに、自分の経験が重なって心の痛みが伝わってくる。
淡々と語る男性も、ステージの上で泣き出してしまう中学生も、みんなそれぞれに死ぬような経験をしてきたのだった。

洗礼式では、たいていの宗派が全身水につかって象徴的に死を体験する。
古い自分に死ぬのだ。
迷い戸惑い、希望がないと絶望したりのろったりする自分に死んで、一切すべての罪を捨て去って蘇るのだ。光と愛を確信して歩んでいくという公的な宣言が洗礼式だ。
(キリスト教で言う罪とは、神の救いを信じない、つまり絶望することであって、いわゆる日常的につかう罪概念とは違う。)
もちろん洗礼を受けたからって急に強くなるとか守られるとか言うわけではない。
ただ、決心なのだ。
さまざまな出来事はこれからも起こる。
むしろもっと頻繁に起こるようになるかもしれない。
もっと敏感に痛みを感じるようになるかもしれない。

それでも希望を捨てないで光を見つめていくという決心の表明なのだ。
この静かな喜びは、ゴスペルのアメイジンググレイスに高らかに歌われている。

驚くべき恩寵!
なんと甘美なことか。
私のようなどうしようもないものにまで・・・
私はかつて、人生を失っていた。
目が見えなかったのだ。
そしていまや発見したのだ。
恩寵が、見えるようになったのだ!

Amazing Grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed!

Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures.

Yes, when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the veil,
A life of joy and peace.

The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.

When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.

喜びと平安の中を歩んでいくのだ。

介入の難しさ

自殺するって言う人に対しては、誰もが止めるだろう。
100人中99人は止めなくてはいけない、と思うだろう。

安楽死については状況にもよるけど、いろいろ意見が分かれる。
精神的な安楽死について悩んだことがあった。
これに関しては危険だからここでは言及は控える。

しかし、じゃあ、うつの人について、引きこもりの人について、介入すべき?
病的レベルなら介入すべきではないか。
確かに。
でもその、病的かどうかってどこで判断するの?
専門家の査定?
専門家でも意見が別れることも多いよ。
症状が同じでも個人の資質や環境でも経過はずいぶん違うものだし。
さあ、どうする?

本人のあり方を尊重するっていうかかわりもある。
臨床心理学の基本的な姿勢だ。
どのような状態であれ受容していく。(肯定じゃないよ!)
でもそれは、自他を傷つけないという前提のときのみだ。

もし本人が引きこもって満足して自分の世界に浸っていたらどうする?
誰も、傷つけてないじゃないかといわれたらどうする?
自己責任だしと居直ったらどうする?

世界に出てみたらもっとすばらしいよ!
というのはおせっかいなのだろうか?

本人のあり方を尊重したいと思いつつも、いいのかな・・・と思ってしまう。
このあたりのバランスは非常に難しい。

基本的には本人が一番自分のことを理解しているのだと尊重しつつ、あまりにも偏って見えるときには強制的な介入もやむをえないのかもしれない。
そのとき嫌われてもあとで感謝される場合だってあるだろう、と思いたい。
しかし、状況がそれでよくなっても、ほかで違った症状が出てくる場合もあることを思うと、引きこもったりうつになったりする時間というか経過がどうしても必要なのかもしれないと思うこともある。

そうなると、黙って温かく、見守りつついくしかない。
介入しすぎは、価値観の押し付けといわれる。確かにそうかも。

小さな頭であれこれ考えても埒が明かないときには、大いなるものの流れにまかせてみると言うのも、一理あるだろう。

それでも地球は回っているというか、お天道様は上ってくるというか。

どこにでもある喜び

いろいろな困難や苦難が重くのしかかるときがある。

一体自分の人生ってなんなのだ。
苦悩の連続ではないか。
何の楽しみもない。
疲れた。

誰でもこういう境地になったことがあるだろう。
そこで少し浸って、自分をあわれんで泣いてもいいし、運命の過酷さを嘆いてもいい。

そうしているうちに、でも、気がつくことがある。
ああ、でも、まだ呼吸できてる。


たとえばテストの成績が悪かったとする。
ああ、だめだ・・・でも、これで単位が落ちるってことはまだないんだ、大丈夫!
単位をおとしたとする。
ああ、だめだ・・・でも、これで卒業できないってことはないんだ。大丈夫!
卒業できなかったとする。
ああ、だめだ・・・でも、学校に行けてたりする。大丈夫!
学校にいいけなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、ご飯食べられるし寝られる。大丈夫!
ご飯も食べられず寝られなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、まだ寝るとこもある。大丈夫!
寝るとこもなくなったとする。
ああ、だめだ・・・でも、まだ歩けるし目も見える。大丈夫!
歩けなくなったり目も見えなくなったりする。
ああ、だめだ・・・でも、お花の香しい香りが、優しい友人の声がする。大丈夫!
意識がなくなろうとする。
ああ、もうだめだ・・・なにも考えられない・・・

そこにあるのは存在そのものの、言葉に尽くせない喜び。

人生のあらゆる段階で、必ず喜びの種がそこかしこにばら撒かれている。
それに気がつくかどうかはあなたしだい。

この世は光?それとも闇?

先日のセミナーで、「この世は闇か光か」と言うテーマで別れてディベートをしてみた。

どっちが勝ったかと言うと・・・ビミョーに闇派が優勢だったかな。

闇と言われるのが嫌で、二度生まれと呼んでくれといわれ、途中から、ウイリアム・ジェームズの一度生まれ派・二度生まれ派と呼びはじめてから議論が混乱してきた。
単純に言うと、一度生まれは、はじめから神の愛の中で喜びに満たされているタイプで、二度生まれは、苦悩を通じて絶望から死にいたり、再び生まれて救いの光を見るタイプだ。
混乱してきた理由は、闇派(二度生まれ)が、本質は光なんだけど・・・とか、子どもによってはゆがみや闇を知らない人もいるみたいだけど・・・みたいに、光派の意見を部分的に主張して突っ込まれないようにしてたせいだ。

この議論は本当に難しい。
どこが違うのかクリアカットに理解するにはまずジェームズの本を読んで欲しいけど。

このディベートで欠けていた視点がある。
それは生理学的な見解だ。
認知科学では、人間は見たもの聞いたもの、知覚したものによって世界を構成していくとされている。そして解釈や説明をつけていくんだけど、その認知の枠組みは外界に影響されているのだ。つまり、良いものポジティブなものをみたり聞いたりしていると、そのような回路が優勢になって何を見てもポジティブな側面が目に付くようになるし、その反対の法則も成り立つと言うことだ。
現実の闇から目をそらすなと言う主張は、闇を見つめろと言うことでもある。
生理的に言えば、闇を見つめると世界が闇に見えてくると言うことでもある。
これはある意味不健康なことである。
つまりネガティブ思考回路が活性化されることを意味するからだ。
そうなると、喜び、感謝というよりも、不安、恐怖、不信などがおきてくる。

この世は闇か光か、現実的、科学的、客観的に判断すれば闇かもしれない。
しかしその闇の中に光を見つけ、可能性を見出し、希望と愛と喜びの種をまいていくことこそが人間にしかできないスピリチュアルな資質だと思う。
そしてそのためには、光を見つめていくことが有効であることが生理学的にも明らかになっていることはおぼえておいたほうがよいと思う。
欠点を指摘するより、美しいお手本を示し、それを繰り返し見せていくことのほうがあらゆるスポーツ、芸術などの技術向上に貢献すると言う実証データの蓄積も無視できない。

と言う話をする時間はなかったんだけど、一番補足したかったことである。

旅としての人生

旅に出ると、日常から切り離された意識が広がる。
新しい場所や出会いの連続という非日常の中でミニチュア人生を経験する。

笑いや涙や感動をともにしながら、深いところで経験をともにしてきた仲間とも、旅が終わったら、たいていの場合、二度と会うこともない。
授業で教えている学生達もそうだ。
限られた時間の中での深い体験は生涯忘れることはないけど、今後たぶん二度と会わないことを考えるとふしぎな感覚になる。

そういうことを考えると、別れと新しい旅立ちの季節は、切なくとどまっていたい気持ちになってしまうことが多い。
寂しさ感慨と期待と・・・
とどめておきたい時間は容赦なく過ぎ去っていき、次の旅に押し出されていく。
二度と同じ時間はやってこないし、私自身も二度と同じ自分ではなくなる。

刻み込まれた思い出を深く焼き付けて、さあ次の旅に出発しよう。

空っぽになる

マザーテレサの言葉より

「私たちがどれだけ空っぽになるかということがたいせつなのです。」

「あなた方の持つものが少なければ少ないほど、あなた方は、持っている以上に与えることができ、あなた方が多くを持てば持つほど、与えることが少なくなるのです」

これは逆説的に聞こえるけれど、確かな真実である。
彼女は最低の極貧の人たちと清貧を守っていて、その態度は時にかたくなに思われるほどに見えた。
お金があったらもっと大きなことができる、もっと多くの人を救えると思う人は多い。
しかし彼女は大きな事業やたくさんの人の救済を志向しなかった。

ただ、今、目の前にいる弱った人に対して、柔らかな笑顔と暖かい眼差し、そしてゆっくりとした深いタッチで世話をした。

空っぽになるからこそできる、愛の実践だ。
与えるものもお金もないときに、もっともたいせつな魂からの愛を与えることしかできなくなる。
必然的にそちらの方向に向かうのだ。
お金やモノがあると、誰に何をどのくらいいつ供給すべきかと心が騒がしくなる。
もちろん、国家や企業レベルで大きな事業を成すことはすばらしいことだ。
でも、マザーの教えの中には見失ってしまいがちになるたいせつな真実が秘められている。

彼女は教えようとか啓蒙活動をするのでもなかった。
ただただ、目の前にいる人に暖かい手を差し伸べて親切にしていただけだ。

その彼女の単純な行為は世界中に広まり世界中の人々の心を捉えた。

真実の姿は魂を捉える。

マザーとその活動を共にする人々、支えている人々、そしてまったく知られないうちに同じような活動をしているに違いない、空っぽの小さな貧しい人たち、その愛にふれて感動する人たち、喜びながら死に向かっていく人たち、そしてこれを思い出させてくれた石川勇一先生にも感謝したい。

日常と非日常のハザマで

どんなに非日常だと思うことでも、回数が多く毎日だったら、それは日常となる。
お祭りでも、戦争でも。

日常になってしまうと、感動がなくなる。
感謝や驚きというインパクトがなくなる。
失ってから初めてやっと気がつくのだ。

日常を非日常として、二度とこないたいせつな時間として神聖化 するには・・・
そのためには、今、この瞬間を生ききることだ。
平凡の中に埋め込まれている深みを携えて生きることだ。

そのとき、存在のすべてが、
きらめいて光を放っているのが、
暖かく微笑んでいるのが見えてくる。

クリスマスの今宵あなたに

平和の祈り (聖フランチェスコ)

神よ わたしをあなたの平和のために用いてください

憎しみのあるところに 愛を

争いのあるところに 和解を

分裂のあるところに 一致を

疑いのあるところに 真実を

誤りのあるところに 真理を

絶望のあるところに 希望を

悲しみのあるところに よろこびを

暗闇のあるところに 光を

もたらすことができますように

助け導いてください。

神よ わたしに

慰められることよりも 慰めることを

理解されることよりも 理解することを

愛されることよりも 愛することを

望ませてください。

わたしたちは 与えることによって与えられ

すすんでゆるすことによってゆるされ

人のために死ぬことによって

永遠に生きることができるからです。アーメン

適材適所

世の中の多くの問題は、適材適所になったらたいてい解決するんじゃないかと思うことがある。

できないとか失敗とかするのは、適切じゃないとこにいて、無理なことをしようとしてるからかもしれない。できることをできるときにやったらいいのだ。
何もない?
そういう時は休んでたらいいのだ。
死にはしないはずだ。

そして場所や時が変わったらできることがいっぱいあることに気がつくだろう。
今、ここでできないのは、適切じゃないとこにいるからだ。
適切な場所に行ったら、苦労じゃなく、遊びで楽しくできてしまうことに気がつくだろう。

なのに、どうして楽しく楽にできることをやらないのだろう?
確かに、需要と供給のバランスがあるからね。
みんながバイオリンやりたいと思っても、ベースがいないといいハーモニーにはならないよね。
でも、探したらきっとあるはずなんだ。
誰もが自分らしさを十分に発揮して楽しくできることが。
そしてそれが結果として人の役にたっているということが。

難しいのはそれを探すことなのよね。
だからカウンセリングに行ったり悩んだりするのよね。

それを見つける方法?

頼まれなくてもお金もらえなくても自分からやっちゃうことってないですか?
全然苦じゃなくて、むしろ楽しかったりすること。
それですよ、それ。

それがあなたの天職です。
自分にむいたとこにいってください。
そうしたら世の中がもっと楽しくスムーズになっていくことでしょう。

何もしたくないですって?
ジャアとことん何もしないで下さいね。
絶対にしてはいけませんよ。
その中でもし何か出てきたとしたら、それがそれ!です。

できるだけ少なく

幸せになるコツって、できるだけ少ないことを、できるだけゆっくりと、できるだけ少ない人と、できるだけ集中して熱心にやることにある。

これはすなわち、いまのこの瞬間を愛することなのだ。
たくさんのことをしようとしたら集中できない。
少ないことを丁寧に心を込めてやっていると、そこに愛が生まれる。

パソコンのキーボード、いつお掃除した?
一つ一つの隙間を丁寧にほこりを取って、洗剤をつけて優しく汚れを取っていたら、本当にいとおしくなってくる。
いつもむちゃくちゃたたいててごめんね。
壊れないでいてくれてありがとう。
って、タッチするたびに愛してるよって言い続ける。

目に入るものすべて、触れているものすべて、聞こえてくるものすべてに愛してるよってメッセージを。

そうしたら、こんなにもたくさん愛するものに囲まれていることに気がついて、びっくりしてしまうはず。

ボーナスなくても、内定取り消されても、病気になっても事故にあっても、そんなのどおってことないよ。
だって、ほら、なんとかなってるじゃない、ねえ。
そうそう。
持ってるものとか可能性が少なくなることはチャンスなのよ。
それだけ愛することができるんだから。

生きてる喜びってどこから来るの?

どこから来るのだろうと考えてた。
ぴったり来る言葉が日本語でなかなか見つからない。
感謝に近いんだけど、ニュアンスが違うんだ。
感謝というと、なんだか「感謝しないといけませんよ」という文脈で意識的に思いをはせるというイメージがつくまとうのだ。あるいは、何かモノや出来事や、感謝する対象が目に見える形や事象として説明できるものに限られてしまうのだ。

生きてる喜びは、「ありがとう!!」という喜びなんだけど、誰に対してとか何に対してとかではなくて、言うならばすべてに対して、となる。
喜びは、喜びなさいと命令されてするものでもないし、意識的に努力して喜ぶというものでもないだろう。
生きてる喜びというのは、湧き上がってくる、押さえても押さえても押さえきれない、ありがとうの気持ちというのが一番ぴったり来るような気がする。

生かされているという喜びなのだ。

感謝の日

昨日は勤労感謝の日?だったせいか、朝5時半からよる10時半まで勤労してました。
月曜日に授業がある科目の時間数が圧倒的に足りなくなるので祝日出勤があるのです。

あああ
と思いつつ祝日まで働くの、勘弁したいよ・・・と不満を持ちながら通勤。
でも、どうせだから、って授業で感謝の意味と効果・ワークに集中してみた。

ポジティブ心理学の実験で、様々なメンタルヘルスに効果的で元気になるワークのうち、一番効果が高かったのが寝る前に今日の感謝したいことを数え上げて眠りにつくというやつだった。

感謝をみんなで数え上げたのだ。
とても良かった。
みんなの感想から・・・

こころがぽかぽかしてきた、すごいうれしくなってきた、書ききれないほどいっぱいあります、
忘れていたことを沢山思い出した、いきててよかったな、気持ちがハイになった、とかとか・・・

教室全体の空気が澄み切ったさわやかな暖かさで満ちていた。

本場アメリカのサンクスギビング・ディナーを前日からはりきって作っていた娘のところに雨の高速をぶっ飛ばしてたどり着いたのは夜の十時。
おなかがすいて、コンビニで何か買って食べようかとの誘惑に負けずに行った。
最高においしかった!!
感謝を数え上げるのは、この日の習慣なのだ。

かわいくうまれたこと・・・なんていってる学生を笑いながら、先生は?
ってきかれて、何も言えなかった。

私は感謝する事を思い出したら、あまりにもすごすぎて、感動に圧倒されて言葉がなくなってしまうの
だ。
今ここに私がまだ生きている事を許されている。
この不思議さ。
奇跡にも近いこの尊さ。
これをなんて表現したらいいのだろう。
具体的に上げるとしたらきりがなく終わらないリストになる。
そういえば、去年の終わりに、108の感謝を書いたな・・・

今年ももうすぐ終わる。

ありがとう、ほんとうにありがとう

詩人や哲学者の言葉

学会のシンポジウムで、湧き上がるようなエネルギーの上昇というのを文字通り体験された方が、デュルケムの「沸き、立ち上がる下からの沸騰?」のような言葉が比ゆでなくその通りだと実感した、というようなことをおっしゃっていた。

私も、いつも書いていることだけど、「きらきらした透明な光のパウダーが舞い降りてくる」とか、「お花が微笑みかけてきた」とか、「空気や空に染まって溶けていく」とか、詩的だと思われる表現は、実体験のリアリティに満ちた表現であって、決して比ゆではない。

詩人の言葉はみな、そういうものだと思う。
そしてこの、光のシャワーの中にいて全身が透き通って、静かに穏やかに在るという感じはまさしく、JOYなのだ。

私はわきあがる情熱というかいわゆるクンダリーニ?とか呼ばれるものを体験したことはない。
聞いてるとなんだか苦しそうで痛そうだからしたいとも思わない。

透明な冷たい朝の空気の中、細くて消え入りそうな月と、見事なグラディエーションを見せるもうすぐ顔を出しそうな太陽の光。
これ以上の何を求めるというのだろうか。

今、ここですべては完全に美しい。

うつになったことがない人

臨床心理学の時間に、うつになることは、ある意味自然の回復のために必要なことかもということを話したくて、うつになったことがない人はいないと予想して質問してみたら、さわやか笑顔の青年が、にっこりして手を上げた。

「うつになったことがないです。」
「物事がうまくいかなくてがっかりしたりしたことないですか」
「うまくいかないときはありますけど、別のやり方をしてみるとか考えます。落ち込むことはありません。」
「いやな気持ちにならないの?」
「がっかりするけどひきずりません」
「大切な人、愛する人を失ったとか、そういう経験は?」
「まだないですが,想像すると、しばらく何も手につかないような気がします」

他にもクラスにいろいろな質問をした。
少数派だけど、健康的な人がいた。
驚いたことに、というか当然かもしれないけど、うつになったことがない彼はすべてに当てはまっていた。

1.昨日12時前に寝た3人のうちの一人
2.コーヒーを飲まない人の8人のうちの一人
3.毎日運動する人のうちのひとり

感心して彼を眺めていたら、ますますさわやかな笑顔が迫ってきた。

うつになってひきこもりたい気持ちは、傷ついた心を休ませたいというう正常な体の信号だ。
休ませたらいいのよって言いつつ、本来なら、そうなる前にカフェインなどのドラッグをやめてゆっくり運動と睡眠をとっていたらいいのよんw。
そこまで心が疲れることは予防できるはずだからって思った。

そう、からだを動かすことの効果、みんなばかにしてはいけないよ。
カウンセリングに行く前にその辺一周走ってからにしな!っていいたいくらい。笑

たとえあなたが・・・

誰も悪い人なんかいないんだよ。
本当にいないんだよ。
みんなあなたのこと大好きなんだよ。
愛してるよ。
そう見えないときがあるのは少しだけ脳がうまく機能してないときだから。
愛が見えないときがあるんだよね、不完全だから。

悲しくなったりむなしくなったりしたら思い出してね。
私があなたのことを愛してるってことを。
どんなに叫んでも暴れても逃げ出したくても、意地悪な気持ちになって自分や人を傷つけても。
わかってるよ。
見えてるよ。

あなたの繊細な優しい気持ちが。
そう。
愛の表わし方がちょっと得意じゃないのよね。
照れちゃってるのか。
強がってるのか。
悪いほうがかっこいい感じがするからか。
そうしないとやられちゃうと思ってるからか。
権威が保てないとか。

うん、いいの。
あなたがどういうことをしてどんなことを言ってもわかってるから。

あなたの、表現できない寂しさと愛をしっかり受け止めてるよ。
何をしても、何を言っても、純粋で優しいからこうなってるって全部知ってるから。

そういうあなたが大好きなんだ。
愛してるよ。

たとえあなたが私を殺したとしても、愛してるよ。
でも、にっこり喜んでいるのを見るのがもっと嬉しいよ。

いってらっしゃい。
愛してるよ。

もやもや感対策

ちょっとしたアンケートをしてみた結果、半数以上の学生が、「もやもやした気分でヤル気がしない」と。
確かに・・・、

反応が鈍すぎる。
当てても返事をしない。
質問しても答えが返ってこない。
指示しても動かない。
3回同じことを言っても1割以上の学生が聞いてない。
目に生気がない。
姿勢が悪くてゆがんでいたり前かがみ。

天気のせいもあるのだろうか。
レポート提出日だったから、寝てない学生が多かったからか。
脳内の化学物質バランスが壊れているとしか思えない。
ニート予備軍か。

このようなぐずっとした態度に接して、イラッとした私自身もきっと脳が不健康な状態になってると気がついた。しかし半数以上がそういう感じだと、クラス全体がもやもやした雰囲気におかされる。

学生達に聞いてみたら、もやもやしながらもまあなんとなく社会参加はしてるし、友人関係も悪くない、学校に来てるし単位もそこそこ取ってるし就活もやってる。
目に見える問題はない。

が、やりたいことがない。
目標がなく、むなしい気持ち。

どうしたらいいと思う?
そうじゃない人はどうしてる?

そう感じない人はバイトでも部活でも何か一生懸命やっている人だった。
やらざるを得ない状況にあるというか。

でわかったこと、もやもやむなしくヤル気がなく疲れている人は、何もやらないから疲れてるのだ。
つまり自分の中にエネルギーがくすぶっている状態なのだ。
何かやってみたら楽しくなるのだ。
でも、何もヤル気がしない。
そういう人は、仕事ややるべきことが十分できてないから、仕事しなきゃ、レポートやらなきゃと思って、したくない気持ちにますますおかされているのだろう。
で、ますますやる気が出ず疲れてしまう。
悪循環。

そういう人は、泳いできたらいいのにとか、ちょっとストレッチでもやって深呼吸してリフレッシュしたら?
といってもそれもかったるいと寝転んでる。飲み会だカラオケ行こうか、って誘っても、重症になるとそれさえも億劫で、付き合いが悪いと思われない程度には遊びに行く。でもちっとも気持ちのもやもやは晴れないんだ。

なぜか、考えてみた。
人のためになることをしていないからだ。
やりたいことをまずしてごらんというときに、自分の楽しみだけを考えていたらむなしくなってくるのは当然だ。人間はそのように作られてないからだ。
支えあって助け合うように作られているのだ。

生きる目的や希望が見えないとき、何でもいい、人に喜ばれるようなことをしてみたらいい。
できたらからだを動かすようなことがいい。
やってみたらわかる。
読むだけではわからない。
はじめの一歩だけ、ほんの少しエネルギーがいるかも。
あとは自然にヤル気がチャージされて元気になってくるのがわかるだろう。
今朝は・・・公園のごみ拾いなんていかが?
一歩外にでて新鮮な空気を吸っただけで気分がかわるのがわかるはず。

道徳的な理由からアドバイスしているのではなく、純粋にメンタルヘルスの観点から話してるんだけど。

道徳もメンタルヘルスも、美容と健康もアンチエイジングも、実はすべて同じルーツに答えがあることに気がついた人は幸せだ。

人のためになることの喜び、これ以上シンプルで効果的で、しかもお金がかからない解決法はない。

ほら、夜も明けてきたし、小鳥が誘ってるよ!

愛ほど強いものはない

力も、知恵も、運も、作戦も、何をもってしてもかなわないものがある。

それは、愛。

真実の愛を前にしては、ただ、頭をたれるしかないのである。

何も難しいことなんかないんだけど

人を愛することとか。
求めながら傷つきながら、なんだかみんな、非常に困難だと思いすぎてない?

ものすごく単純なんだけど。
たとえば普通にお母さんが子どもに対して感じる気持ち。
たとえば普通に、出あったばかりの恋人に対して愛しく思う気持ち。

あなたのためならたとえ火の中水の中、じゃない?普通に、しかも喜んで。

それはきっと、相手と一体化してるからでてくるんだと思う。
相手の痛みが自分の痛みだから、相手の喜びが自分の喜びだから。
ある意味、めっちゃくちゃ自己中よね。笑

それをちょっとだけ少し広げるだけでいいのよ。
自分の子だけじゃなく、恋人だけじゃなく、結局みんなつながってるんだからみんなの痛みや喜びも自分の痛みと喜びなのよ。
それに気がついたら、人に親切にしようとか、他人に迷惑をかけないようにしようとか、そういうの、自分が気持ちいいことをしようって言うのと同じじゃない。

難しくないよ。
気持ちがいいこと、楽しいことをやるだけだから、なにも無理がないよ。
無理がないとき、病気にもならないし、落ち込むこともないよ。
楽しいだけだよ。

何も難しくないでしょ?
こんなに単純なこと。
今日のお空のように、晴れ渡って明白な真実。

喜ぶために生まれてきたんだよ

クリスタルチルドレンという曲が多くの人に感動をもたらしたのは、きっと、その人たちの中にある本当の気持ちに気がつかせてくれたからだと思う。

クリスタルチルドレンは、特別な子どもではない。
みんながクリスタルなんだ。
そのことを思い出すだけでどれだけ幸せで穏やかな気持ちになっていくことだろう。

誰も責めないで欲しい。
特に自分自身を責める必要はない。
なまけもの?だからこうやって生きていられるんだよ、過労死しないで。
自己中?だから生きていられるんだよ。
みんな自己中心的だよ。
自分が気持ちいいのが好きなんだよ。
弱い人のために犠牲になるって美しいけど、自分を捨てたら、一人で生きていけないし、弱い人も生きていけないよ。
飛行機が落ちそうになったときにでてくる酸素マスクは、お隣の体の弱そうなおばあちゃまとか赤ちゃんに先につけたらいけない、自分が真っ先につけろって指導されるのはなぜかわかる?
弱い人を救うためには自分をまず、すくうしかない。
そうしないと共倒れになる。
助けたり奉仕したりするには健康で元気でないとできないんだよ。

愛する人に喜んでもらいたいでしょ?
嬉しいよね。
あなたを愛してる人を喜ばせたいのならあなた自身が喜んでることが最高じゃない?
自分も他人もなくつながってるんだから、自分も地球の一員なんだから。

喜ぶために生まれてきたんだよ。
どうぞ思い出して、クリスタルの皆様

イエス様の赤ちゃんが欲しい!

クリスチャンからする言わせると、なんて冒涜的なということになるかもしれない。
でも、実はこれは究極的な願いなんだ。
まさか、2000年前の遺伝子が冷凍保存されてるなんてことはないよね。

かれは学歴も経済力もないし、夜中の授乳をてつだってくれたりお風呂に入れてくれたり、予防接種に連れて行ってくれたりとかもあまりしなさそうだし。
離乳食作ったりも、私がダンスレッスンに出かける間、きちんとベビーシッターしてくれるかどうかも怪しいって気もするんだけど。

でも、彼の魅力は捨てがたい。
もし彼が今ここにいたら、きっと、私は夢中になってしまうだろう。
でも決して、その恋は成就しないだろう。
彼の愛は一人に限定されない性質のもののようだから。
切なく辛いですね・・・
自分だけを見つめて!と言うのはわがままなんでしょうね・・・
受け入れるしかないですね。
そういう人を恋してしまったら、それを受け入れるしかないのよね。

ああ、秋は切ない季節です。

狂う

人が狂うのはどういうときか。
それはその人本来のあり方から外れているときだろう。

社会的存在として、ある程度適応するために真に自分らしく生きていくことは難しいことが多い。
そのために、ペルソナ(社会的自己)と呼ばれる仮面をつける。
外部にあわせているうちに、本来の自己がわからなくなる。
すると、なんとも説明のしがたいむなしさや、不全感が生まれてくる。
無気力さかもしれない。

目に見える条件に何も不足はないのに、そういう時、人は狂い始める。
本来の自己になりたいという内なる衝動に気がついてそれを探し始める人もいれば、それをごまかしながら気がつかないふりをして今までの人生をそのまま送り続けようとする人もいる。
あまりにもほおって置かれたために、簡単に見つけられなかったりする本来の自己。
あるいは見つけると社会的にまずいことになることに気がついて放棄したりごまかしたりもする。

上手に折り合いがつけられたらよいのだけれど、不器用な人は狂いはじめる。
それはすべて本来の自己になるための、つまり自己実現へのいざないなのだけれど、それは狂気に見えることが多い。普段の生活からの逸脱になるからだ。
いきなり一人旅に出かけてみたり、安定した就職や家庭を放棄してしまったりすることまである。
見つけられずに放浪の旅にでて、インドくんだりまでいってヨギになったりする人もいる。
手近かなところで酒、タバコ、セックスなどに支配されてしまうのも、その衝動をごまかしている現象に違いない。

ストレスからおかしくなるともいう。
ストレスとは何か。
自分が外界に合わせて変化していかなければならないとき、適応にかかわるしんどさの度合いだ。
これもまた、本来の自己がわかって、とりあえず演じてみるか、という程度の余裕があれば何も狂うこともないのだけれど。
必死になって本来の自己が見えなくなってしまうと、狂いはじめる。

本来のあり方を実現するには勇気がいる。
状況によって偽りの自己のままこの世での生を選択する人もいるだろう。
そういう人に救いはないのか?
ある。

本来の自己に気がつきながらも、自らの意志でこの生き方を選択したのだという主体性を回復すればいいだけの話だ。そのとき、外から見たらその人らしくない生き方かもしれないけれど、意識の上では本来のあり方に一致しているからだ。
つまり、意識上では自己が実現しているのだ。
このレベルでの自己実現は、ただ、認識の転換だけで起きる。
つまり、今の状況に意味を見出す、ストーリーを書き換えるという作業だけだ。
そのきっかけを得るために、瞑想をするのもよし、日の出を拝むのもよし、美しい音楽を聞くのもよし、マラソンしてみるのもよし、読書してみるのもよし。

狂いが大きくなる前に、毎日調整して生きていったほうが健康的だ。
時間がない?
空はいつでも静かにあなたの上に広がっている。

ただ、見上げてごらん。

セクシーさって

セクシーさって、自分の一番弱い部分を投げ出してオーセンティックにならなければでてこないものだと思う。命の根源のようなものに関係してるから。隠したり化けたりして演出するものではないと思う。

でも、弱さをさらけ出すのには勇気がいる。
傷つく可能性が大きいからだ。
だからみんなでしり込みして後退する。
傷つくことへの恐れ。
このためにどれだけの人がすばらしい喜びを放棄していることか。
すべて悪の根源は、恐れに発しているのではないか。

何も傷つくことはないのに。
自分がそう思い込んでいるだけなのに。
それに気がつかないでドアをシャットダウンしてしまう。

そのことに気がつくのはきっと、人生残りの時間はわずかになっている時だ。でも、いつからだって遅すぎることはない。喜びに向かって一歩踏み出して冒険しようよ。

私たちが完全ではない理由

完全なすばらしい人なんていない。
みんなどこかしら欠けている。
欠けているとこを補い合うために、人に惹かれるのだ。
つまり、正反対の性質を持った人にだ。
極端な例がオトコとオンナだ。
男らしい人や女らしい人は魅力的だ。
異性から見ると不思議で神秘的で、自分にないものを持っていて埋め合わせてくれるように感じるからだろう。
この差が大きいとき、磁石のプラスマイナスのように大きく引き合う。
二人の間には大きな磁場が生まれて、エネルギーが発生するのだ。
それが成長・進化へとつながる。

もし人が完全だったら、この引き合うエネルギーが生じない。
一人でそのままで満足してしまって他者を必要としない。
ニコニコとおおらかに人類愛に目覚めて、他者の必要を満たすだけだ。
自分の必要はすでに満たされているから誰も必要としないのだ。
そういうのってきっとさびしいに違いない。
そう思うのは、私は欠点が多く他者をめちゃくちゃ必要としてるからかもしれないけれど。

人間が不完全であるのは、愛のエネルギー交換がスムーズに行われるための素敵なはからいだと思われてならない。
ゆがんだ形でマイナスエネルギー交換をしてしまうのは、プラスのエネルギーを放出したら自分が損をするという勘違いからかもしれない。実はそうではなく、プラスエネルギー交換は、出せば出すほど豊かになっていくんだけど、これは経験しないとわからない。
マイナスエネルギーを出すというか、エネルギーを吸い取るブラックホールみたいなのに出会うこともある。どこまでプラスエネルギーを出したらこの事実に気がつくのかなあと、どんどんやってみる。
可能性を信じてるからだ。
でも、自分でそうしようと意図するときっと疲れてエネルギーが枯渇する。
いくらでも豊富だというのは、無限のエネルギーの根源、つまり愛の根源にアクセスしているからだ。
つながっているときには限りがない。

でも、完全ではない私たちは、疲れるし、枯渇する。
そういうときには、もう一人の不完全な人と、疲れたねえっていっしょに休んだらいいのだ。
寝てる間にすべての点検とエネルギーチャージが終わってる。

さ、今朝もいってらっしゃい!
もしまだなんか足りないように感じる人はお空を見上げてくださいね。

まったく不安はない

気がついてみたら、私にはまったく不安ということがない。
威張ってるのではない。
ただ、不安で辛いって言う人のために、どうしたらこのようになるのかお役に立てることがあったらいいと思って考えてみたのだ。

私の今の状況は、将来を保証するものは何もない。
パートナーもいなければフルタイムの仕事もなく、保険といえば車の自賠責と国民健康保険以外に何もない。もちろん動産不動産とかまったくない。
つまり保証は何もない。
一人なら別にそれでもかまわないんじゃないかいわれるかもしれない。
ちがうんだ、こんなに情けない私に全面的に依存している扶養家族が二人もいるのだ。
しかも彼らは病気や事故が絶えないし。
要するに、たいていの人が将来が不安で死にそうになるような要因を実はいっぱい抱えてるってことを知ってもらいたかったのだ。

なぜこのような恥さらしを書いたかというと、現実生活が恵まれているからそれは不安がないに決まってると勘違いされないためにだ。

こういうことを書いても信じてもらえないほど、私は優雅に見えるらしい。
多分それは不安がないからだろう。
現状を悲惨だと認識もしてないし。
わくわくスリルとロマンに満ちた素敵な人生だと楽しんでいるから。
(リアルで十分楽しいから私は小説とか映画とか全然見ないです。)

どうして不安がないかというと、ひとつには多分、可能性のほうにいつも関心があってそちらで心をいっぱいにしているから不安が入り込む余地がないのだと思う。
もちろんうまくいかない場合や、失敗、期待はずれもある。
そういうときには、もっといい時期にもっとよいものが待っていることに気がつくだけなので、たとえそれが見えてなくても、さらに期待を膨らませてわくわくと感謝して待ち望むだけなのだ。

ホームレスになっても、瀕死の重病人になっても、愛する人すべてに裏切られたようにみえても、だ。
もちろんそのときには茫然自失するほどのショックを伴うし、凍り付いて涙も出ないほどの絶望感に襲われる。でも、非常に面白いことに、それを楽しみ眺めているもう一人の自分が常にいることに気がつくのだ。そしてその存在は、さてさて、次の幕開けはどのようなストーリーが展開されるのかなって面白がっているのだ。
つらくないってことではない。でも、まったく不安ではないのだ。
どうしよう・・・っていうのがないのだ。
何もしなくても、流れていくからそのままにしているだけなのだ。
どのようになっても、面白いから楽しんでるのだ。
期待したようなことばかりだと実は飽きる。
だから信じられないような展開になるとめちゃ面白がってるのだ。

不安がまったくないというのは、こういうこと。
薬物とかギャンブル、フィクションとかにはまる必要はまったくないよ、人生そのものがこんなにスリルに満ちてるんだから。

Hello and Good-bye

別れは寂しく辛いけど、人生にはいつもそれがつきまとう。
その度に涙し、もう生きていけないような気がして。
でも、まだ、私はここに生きてる。

さよならのあとに、心が空っぽになった時に、
こんにちは、と泣きつかれた目でぼんやりと光の方に向かって挨拶してみる。

放心状態のときだからこそ、繊細な光に気がつく。
そして
去っていったと思ったもののうち、美しいものだけが、結晶のようにキラキラといつまでも残っていることに、気がつく。

追いかけて手に入れようとしたら、それは逃げていく。
すべてを手放した時に、すべてが自分の中で、優しくあたたかな光を放っていることに気がつくのだ。

愛が去っていくように思われるとき、去っていく悲しみの中から、美しい思い出のエッセンスをよみがえらせて、繰り返し繰り返し意識に定着させていこう。
良いものだけをよりすぐって。

愛は永遠だという。
愛は時空を超えているという。
それは、こうやって思い出を蘇らせ、新しい物語をいつだって作っていくことが出来るからだ。
人間に偉大さがあるとしたら、このようにして、どのような物語でもハッピーエンドに書き換える智慧を持っていることにある、と私は思う。

泣きなさい、そして眠りなさい

泣きたい時には泣いてください。
それも涙をぽろぽろ流すッていうんじゃなくって、大声を上げて、子どものように泣いてください。声の枯れるまで、目もはれて頭ががんがんするくらい泣いてみてください。
世界の終わりのように泣いてみてください。

一度やってみたら病み付きになります。
そのあとでなぜか笑いたくなるはずです。

もしかして笑いたくならなかったら、泣き方が足りないのかもしれません。

飛び立つ前にしゃがまないといけないように
朝日が昇る前に暗い夜があるように
春の新芽の息吹の前に冬のちじこまる時期があるように
蝉がみんみんいう前に7年も地下で過ごすように
魂の夜の航海がさとりをもたらすように
涙は笑いをもたらすのだから

泣きつかれたらゆっくり寝てください
寝ている間にこそ、天使が働きかけることが出来るのですから
くれぐれも睡眠不足にならないように
魂の健康のために、たっぷり睡眠を取ってください

ある命の終焉に際して

身近なところから、ある生命の終焉のニューズがはいった。
この地上では,何秒に何人と言うくらい,ありふれたニュースではあるけれど。
それぞれの死には,どんなに小さないのちであっても,ストーリーがある。

地上から眺めていると,それはやっぱりとても悲しくて。
みんな死ぬんだよってわかっていても、とても悲しくて。

いのちが誕生した時に流す涙と同じように取り去られた時にも涙がつきものだ。

さよならが近づいた時に、その辛さを味わいたくなくて距離を取ったりよそよそしくしたり,けんかしたりする人までいる。
みんな,不器用に愛を現している。

(いや〜〜!!!)
(いかないで〜〜〜!!!)

大好きな人から離れる辛さを味わいたくない一心から、最後の、貴重な時間を避けてしまう。触れることも,話しかけることも,HUGも出来なくなるのに。
避けてしまう。そうすることによって、悲しみに直面するのを避けようとする。そんなにまで,人間はもろいのだ。

ああ,どうしてあのとき素直に優しくしてあげられなかったんだろう・・・
どうして断ってしまったんだろう・・・
どうして時間を一緒に過ごさなかったんだろう・・・

天からの声に耳を澄ませて・・・

うん、わかってる,あなたの辛さも思いも全部。
そして全部許されてるから。
どうか自分を責めないで。
私は大丈夫だから。
すべてが流されたあとの清々しさの中にいるだけだから。

捨てるより上書き保存しましょ。

お友達が日記で許しのことを書いてた。
3Fだって。
foget forgive foever つまり、忘れて許しなさい永遠に、かなあ。
そう、忘れるッてすごいことだと思う。
忘れられないのは、感情がその出来事に固着しているからだわ。

私は幸いな人だと思う。
いやなことを全く思い出せないから。
裁判とか警察で被害を列挙するよういわれて、何も証言できなくて実は困った。
でも、別によかったんだそれで。
賠償とか保障がもらえないけど。
実害がどんなにあっても過ぎていくことだし。

許すッて別にすごい勇気のいるコトでも意志がいることでもなく、自然なことなのよ。
どうしたらいいか?
簡単です。
嬉しいこと、楽しいこと、感謝することで心と頭を満たすだけです。
いやな思いはデリートしても痕跡は残るから、素敵な情報を上書きしたら良いのよ。
修正して保存したら元には戻らないでしょ?
簡単です。

3つのfに、もう一つ私は付け加えたい。
fortune
そう、これであなたはラッキーで幸せ。
でしょ?

魂より心より体

心の時代ってずっといわれていた。
今は魂の時代とでもいうのかなあ。
見過ごされていた次元にみんなの注目が集まっている。
浸透するには2、30年もかかるんだろうね。
今ようやく日本では5年くらいきたかな。
面白い話だけど、私の中では、菜食に対する考えとか態度が魂ブームの指標になってる。
ほぼ同時進行的に偏見とかがなくなってきつつあるからだ。

昔は大変だった。
すごい苦労した。
誰もわかってくれなかった。
今は時々チヤホヤされたりしてびっくりする。
そうなってくると、今度はこっちだんだん飽きてきたりする。
ノーモアスピっていいたくなる。
魂の時代の次はきっと体に戻ると思う。
質より量の時代に振り子が振れると思う。
見えないものより見えるものだ!ってね。
魂の大切さを実感したら、きっとますます体と目に見えるこの世がいとおしくなるに違いない。
永遠が、今ここでの一瞬のうちに存在していると言うのと同じ事だ。

食べる/いただく

ミッドウエストに来てから、美しい音楽と建築物にひかれてルーテル派教会の荘厳な礼拝にでている。カトリックほどじゃないけれど、500年にもなる伝統を感じるクワイヤやオルガン、トランペットやオーボエなど,毎回音楽に魂を奪われてしまう。
クワイヤ(聖歌隊)も大人,子ども、学生の3種類が掛け合いながら、澄み切った柔らかな波動がステンドグラスに囲まれた高い天井まで建物を満たしていくのだ。

儀式ってすごいなと改めて思う。

カトリックのミサでは「主の晩餐」と言って,キリストのからだであるパンと血である葡萄酒をみなで分かち合うという事が行われる。会衆は、大抵の場合はウエハースの皮みたいな丸いちいさなものをいただくだけだ。プロテスタントの教会は月に一回とか4半期に一回とか宗派によって違うけど聖餐式というのをやる。皆でパンをちぎっていただきブドウジュースを飲む事が多い。ピューリタンはアルコールを好まないからジュースなのだ。

このルター派教会では,毎週聖餐式があり本物のワインがふるまわれる。
ヴィジターの名札をつけ,祭壇の前にひざまずいて待っていたら、司祭が、「マナミさん,あなたのために流された主の血潮です」と言ってじっと目を見つめてワインを注いだ。
飲み干した瞬間、圧倒的な愛の嵐に襲われて意識が遠のいた。

カトリックでは、「キリストの御からだ」「アーメン」と言っていただく。
これによって,つながりを再認識し新しく綺麗になって出発するのだ。確かカトリックでは,主のからだを受ける前に告白する事がすすめられていた。綺麗になってからキリストのからだを受けるという意味があるのだ。

聖餐式にどういう意味があるのか考えながら,toniの食禅を思い出していた。
同じ事をやっているのだと思った.
生かされている事、この一口のワインとパンによって象徴されるように,私たちは犠牲の上にあるいは恩恵を受けてここに存在しているのだという事実を、感謝と責任をもって思い起こす儀式なのだ。
日本人は昔から食事を「いただきます」と感謝をこめていただいてきたのだ。
分け合っていただくという行為。
食事は単にエネルギーを補給するためではない。
愛を思い出して,互いに愛を交換しあう儀式だ。
大切にしなければいけないと思った。
(パソコンの前で一人でばりばりやったりするもんじゃないよね。笑)

バランスかなあ

ここにいると,私は、ものすごく真面目で深刻で懐疑的で慎重で丁寧で、ネガティブなんです。
どこが〜〜〜〜〜って言われそうだけど,そして私はいつもと変わらないと思うし、いえ,むしろ日本にいるときより、環境の影響もあって、もっと軽やかにニコニコルンルンしてるんですが。
その私でも、この明るさ積極的ポジティブさカジュアルさの中にいると、東洋の神秘みたいに控えめで、口にする言葉と言ったら、懐疑的で批判的な事ばっかりで。
我ながら、ナンカ損な役回りじゃないかと思うんだけど、そうやって、会議中の爆笑をぴたっと沈める事ばかりしてます。
あまりにもみんなポジティブなんで。
すばらしいけどね。
いつも、アメリカに来たら思うんだ。
私ってなんて日本人的なんでしょう。
帰国したらいつも思うんだ。
私、どこまでアメリカ人になってしまったのだ。

理科系文科系、あるいは学術系ビジネス系、科学と芸術、男性女性、大人と子どもなど、どの世界に行っても、いつもかけてるとこをうめる役割をしている私。
だからここでは、ちょこっと学術的な事も書いたりしてるんです。
学術的な話ばっかりだったら、詩を書いてると思います。

どっちも大切でバランスが必要で、いつもどこでもそういう役割。
だから日本ではやたら軽くて明るくて素早いんでしょうね。

自由と開放

自由と開放・・・

世の中には理不尽な事がいっぱいある。
それに対してプロテストする事はもちろん大切な事だ。
でも、反抗したり反発したりするのは、自由ではなくてその事にすごくとらわれている状態だ。
冷たいように感じられるかもしれないが、自由であると言う事は、それにコントロールされずコントロールもしようとしないことを言う。
インデペンデントというのは、そういうこと。
影響を受けないと言う事だ。
そんなのカンケーネーって言うのに通じるけど、あのカンケーネーは、気になってしようがないのを、気にしないからね!いいでしょ?って宣言してるように思える。反抗期の若者みたいで可愛い。
コントロールされる事もする事もない、つまり他者を変えようとしないで、しかも従ったりしないで、淡々と光だけを放っていくこと、これが自由だと思う。

どこまでも軽やかで、こだわりがなく流れていく、漂っていく。
コアだけにつながっていて、雑多な諸々からは距離を置いて眺めている。
こういう状態の時に初めて、すべてが輝き始める。
衝動/欲求/情熱といった様々なエネルギーが、その時光となって降り注ぐ。
どこまでも透明で軽やかだ。
これこそが真の自由であり開放である。

戦いは必要ない。
力と緊張を手放すだけでいいのだ。
そのとき、悪に脅かされる事もない。
しっかりとコアにつながっているとき、アクからも完全に自由だ。
そのとき、モラルハラスメントもいじめも存在しなくなる。
シャドーにおおわれない、影響されない事。
つまり、気にしたり悲しんだり傷ついたりすることもない。

これが完全な自由と開放だ。
戦う必要はない。
他者とも自分自身とも。
ただ、ただ、愛の中心につながるだけでいい。
他のすべては、手放すだけでいいのだ。
どんなに小さな光でも、陰をどこまでも照らしていくのだから。
さあ、思い出して。
自分が光だってことを。
戦う必要はない。
そのままで、輝くだけでいいのだから。

死を待ち望む

ヴェイユか誰かの著作にあったなあ、このタイトル。

私は決して自殺を推奨してるわけではないし、死によってこの世の重荷や苦しみにピリオドを打ちたいという事を意味してるわけでもありません。
いつも言ってるように、この世は光と愛と歓喜で満ちあふれ、楽しいお遊びなんだから。
生きてるのが嫌になると言う事では決してないわ。
むしろ面白くて仕方がないんだけど。
今、頭痛できついんだけど、なぜかそれさえも面白いんだなあ。
タイプできるくらいだからたいした事ないですけどね(でも今日のデートキャンセルは残念)
でも、楽しいってどういう事かって?
そして死を待ち望むって?
人生が楽しくて仕方ないから、もう堪能しました、ええ、もう十分ですって感じかなあ。
それもあるだろうし、日常的に経験している小さな死の甘美さをも楽しんでいるからだと思うんだ。
別に臨死体験がどうこうと言う事ではないんだけど。

毎日私たちは小さな死を迎えます。
眠りだったり、意識が遠くなる事だったり、人によっては瞑想だったり、セックスのエクスタシーだったり。
ずっと続けていたいほどの、気持ちよさでしょう?
違いますか?
こちらに戻って来た時に、体の重みを感じ、時間と空間に縛られている日常に戻らなければならない時、ああ、生きててよかったなっていうほっとすると同時に、ああ、また、時間と空間に縛られていかないといけないのかってめんどくさい気持ちになりませんか。
そうそう
どちらも楽しいですが、比べたらあっちの方が絶対楽しいわけで。
スピリチュアルっていうのは、ここにいながらあの気持ち良さを実感しながら生きていく事じゃないかと思ったりします。
と言うわけで、今日は一日甘美に眠らせていただきます。

宗教嫌いからのお願い

日本人は宗教嫌いで、宗教はよくないと思う人が多いという調査結果は有名だ。
そのうち、スピリチュアルも同じような目に遭うのだろうか。
これに関しては,いろんな立場からいろんな議論がある。
統合しようとする試みや,普遍的なものを探求しようとする試みも盛んだ。
でも,文化的背景や宗教的背景といった個人的要素がはいってくると、その立場でない人は敬遠してしまう。
だから私は,不必要な誤解を避けるために、フラットランドと言われようと科学的還元主義を掲げる方向に行くのだ。科学主義も一つの世界観だし偏りがあるのは分かるけど,あやしい宗教よりまだいいでしょ?

このブログは「天使語」なんて言う一見アヤシイ系の命名をしてるけど、読んでくださる方はお分かりだと思うけど、結構ガチガチにかたかったりする。
というか、一応オープンにしているけど,立っている場所は一応学術的な,つまり特定の宗教色なしでいってるつもりだ。
つもりでも、時々ぽろっとでてしまうのは仕方がない、ご愛嬌だと思って許して欲しい。

私自身は何が来てもOKだけど、コメントを書く方達にお願いします。
他の方がひいてしまうので(たぶん、でしょ?)あまり宗教色がでないような書き方をお願いします。
自分たちの専門用語を使わないでコミュニケーションしてみましょう。
それが他者に対する思いやりだと思うからです。

いのちの不思議

何が不思議って,いのちほど不思議なものはないだろう。
何もないところから,創成されるのだから。
小さな細胞の一つに過ぎないものがだんだん有機体になっていくプロセスは宇宙の驚異だ。
そしてここに生まれいで、息をし始め、成長して、一人の人間として、様々な経験をしていくのだ。
そして時が来たら、静かにここでの旅路を終わり,次の旅に出発する。
すべての経験が、美しいタペストリーのように織りなされていく。

今また,一つの生命が誕生した。
そしてまた今、一つの命がここでの旅路を終えた。
なんという神秘。
なんという美しさ。

フリーハグできなかった私

そういえば、今、スキンシップの大きい国に滞在してるんですが,あまりタッチされる事がないです,今回。
日本文化を尊重してくれているのかもしれません。
親しくなった女友達も、ちらっと肩を叩いてから、あ,ごめん、よかった?触れちゃったけどって。
セクハラとか,同性でも犯罪扱いされる国だからかしら。

モールに行ったら,フリーハグしてる人たちがいたんだけど。
日本ではやろうやろうって,仲間内では結構してたんだけど。
見ず知らずの人とするのって,やっぱり勇気がいるな,って実感しました。
やろうって気にならなかったんで,不思議でした。
すごくいい事だと思ってはいるんだけど。
でも,正直言って、好きな人としか出来ないなあ。
全然フリーじゃないですね。
ごめんなさい。
でも,言い訳はあります。
私って、ほとんどの人の事が大好きなのよ。
だからハグしたくてたまらなくなる事も多いのです。
でも,日本人は体をひいちゃう人が多いんで,我慢してます。
触るな触れるなオーラ出してる人もいますしね。
でも、よかったら、声かけてください。
ハグしてって。
本気でその場でぎゅっとしちゃいますよ。
そしたら、愛と平和がそれだけ増した世の中になる事間違いないから。

大和魂

日本的スピリチュアリティってきっと、大和魂につながるんだと思う。
これはちょっとヤバい。
国粋主義的で危険なにおいがする。
実際、神風を信じて、たくさんの人たちが尊い命を失った。
そこからかもしれない。
スピリチュアリティに関するネガティブなイメージがあるのは。
傷ついた世代は,スピリチュアルな事について語る事を恐れた。
目に見えないものを信じるなんて馬鹿げた事だと、フラットランド的世界観を教え込まれた。
その結果、生きる意味や目的までも見えなくなってしまった。
精神的に不安定な状態では,やはり,ネガティブなものに同調して行く危険がある。
健康的なスピリチュアリティこそがもとめられているのだ。
大和魂にもすばらしいものがあったはず。
でも,辛くなると人々は視野が狭くなって自分(自国)のことしか分からなくなるんだ。
だからいうのよ。
いつも喜んでいて!
楽しんで!
自分も他人も愛して!

ポジティブじゃないけど

日本人って、全然ポジティブじゃないし、自尊感情も高くないし、だめじゃん!

なんとかしろよ!
自分を好きになろうぜ!
やりたいことあるの?
どんどんやってみたら?
失敗したら、そっかってまた次に行けばいいじゃん。

というのが、アメリカののりだ。。
私はこういうのりが大好きだってことを白状します。

でも、日本人もなかなかいいねえ~~^^
ポジティブじゃないです、確かに。
でもねえ、だからといって、実はネガティブでもないのよ。
今日の発見はこれ!!

喜びに満ち溢れて快感で我を忘れてしまう!!
というんじゃないけど、それなりに、気持ちがいいみたいで。
せみ時雨の中、じっと何もしないで汗かいてそこに座ってる・・・
風流ですな・・・・
この感じは、エアコンをがんがんきかせた快適なぴかぴかのオフィスでくつろいでいるのとはまた違った楽しみなんだよね。
アメリカ人にこれがわかるのだろうか・・・

こういう単純な日本人らしさを派遣して悦に入ってる私。
ね?ね?
日本人なんだよ!!
外に出ると気がつくんです。

絶対にできない無条件の愛と許し

人が人として生きていくためには、無条件の愛と許しが必要だ。
たとえどのようなことがあっても、存在そのものを受容されているということ。
これは、肯定されていることとは違う。
例えば先日の秋葉原事件。
被害者は加害者を許せるか。
まず第一に、もう亡くなっている方がどうやって許せるというのだろうか。
では、一番近しい人が許せるかどうか。
加害者の心情を思いやり、彼もまた被害者であることを考えたら許せるかもしれない。
しかしもし加害者が、残虐な殺人を自分の楽しみとして行い、全く反省を見せないどころか自己肯定してのうのうと生きていくような場合に、許せるだろうか。
人間性を失った存在の行う行為を、それでも許せるのか。
無条件の許しとは、突き詰めていくと、決してありえないということがわかる。

無条件の愛もそうだ。
愛することによって愛が返ってくる喜びを、期待しているわけではないけれど、やはりうれしい。
愛が返ってこないで反対に憎しみと攻撃が返ってくるときに、その存在をあるがままに受け入れていくことができるか。もう一度言うけれど、その行為を肯定することではない。
不健康な破壊的行動や態度には当然のことながらその結果が付いてくる。
それに対して少しでも、仕返しや安ど感などの気持ちがあるとしたら、無条件の愛と言えるのだろうか。
違うのだ。愛していたら相手の痛みが自分のものであるはずだ。

存在の根源には、そのような思惑を超えた深い愛と許しがある。
無条件に愛し許すことができない私たちを、無条件に愛し許している存在があるのだ。
私たちができることは、無条件に許し愛していないことを吟味、確認しながら、それでも許され愛されてここに生かされていることへの感謝と喜びしかない。
その喜びと快感の中でこそ、少しでも無条件に近づきたくなっていくのだ。

この圧倒されるような偉大な許しと愛の中で、私は言葉を失う。
人類がどんなに愚かであっても、すでに許され愛されているこの神秘に。

困難回避とセックスレス(歓喜回避)

セックスレス、調べてみて驚いた。
日本人男性は世界で最も淡泊らしい。
これをどう見るか。

人口が増えすぎているからちょうどいい?
仕事ややることが多くてそんな時間もエネルギーもない?
性を昇華して社会的に有意義なことに向けていたらいいんだ。
もっともらしく聞こえるだろう。

でも、昇華というのは、もともとすざまじいほどのエネルギーがあってそれをコントロールしていく時に生まれるものである。初めから欲求のない、つまりエネルギーに欠ける人には、そのようなクリエイティブな創造性が出てくるとは考えにくい。

これは非常に重大な危機ではないだろうか。
人間が人間として人間らしく生きられない時代というか。
食べないで生きていくことを目指す人たちもいるらしい。
エネルギー危機の時代には確かに好都合かもしれない。

性と食、この原初的な欲求をなくして天使になるというのだろうか。
確かに悩みや病気は少なくなるかもしれない。
でも、同時に、めくるめく情熱や強烈な喜びも失っているのだ。

困難を避けようとしたら、歓喜も遠ざかる。
命が薄っぺらになっていくような危機を感じる。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」  っていうことわざがあったよねえ
「君子危うきに近寄らず」  もあったって?
はいはい、日本人の紳士さまさま

心霊とか怪奇とか

不思議現象は多いし、私はその実在を否定しないけど、それをどう意味づけるかとかどう現れるかについては多少意見がある。

はっきり言えることは、似たものどおしが集まるということだ。
自分の心が投影されてると言ってもいい。
怖くて嫌だと思う現象は自分の心の中の薄気味悪さを語っているに過ぎない。
心霊スポットが好きな方はわざわざ出掛ける必要はない、自分の心の闇のほうがよっぽど恐ろしい。

なぜみんなこういうものにひかれるのか、理解に苦しむ。
自分から嫌なものを求めていくなんて。
自分から苦難を求めていくように見える人も多いなあ。

こんなに高く晴れ渡ってすがすがしく風が吹いて、空の雲は一つとして同じ物がない瞬間芸術を、大きなキャンバスいっぱいに広げているというのに。
どうしてこっちを見ないの?

不思議でたまらない。
愛と光しか本質ではないのに。
どうして過ぎ去っていく陰でしかないものに捉われて、とりつかれて行くんだろう。

人生は苦行も闇でもない。
はっきり何度でも書くけど、喜びであり、光そのものなのだ。
そうでなくみえるものは、縁取りだったりスパイスだったり、とにかく、喜びをもっと素敵に彩るだけのためにあるのだ。

今日もまた素敵な一日が始まりました。
愛と光の中にいるってことを思い出してください。
見えなくても、感じられなくても、そうだということを。

洗いもの人生

ふと気がついたら、いつもいつも、汚れたものを洗っていたり、お掃除したりしてばかりだということに気がついた。
主婦って結構そういう役回りの人が多いと思う。
他の人のよごしたものもきれいにする役割。
きれいにしたと思ったらまたすぐ汚れているんだ。
で、全くきりがない永遠に続く、洗いもの人生。

誰かが言った。
「私は掃除と洗濯をするために生れて来たんじゃないのよ!」
彼女の仕事を顧みず、散らかしっぱなしよごしっぱなしの人たちに、つい言いたくなるんでしょうね・・・

お掃除をしないでめちゃくちゃなとこにいる人たちも多い。
忙しいから、疲れてるから、面倒だ・・・
汚い環境で平気なんだろうか。
麻痺するらしい。
でも、面白いことに、お化粧とか車とか、外に出るときだけはばっちり決めてたりすることだ。

私は自己中で他の人のことをあまり考えないから、どう見られるのかより自分が気持ちがいいかどうかが気になる。人が来るからという理由ではなくて、自分が気持ちがいいからという理由で掃除する。
楽しいからするのだ。

洗いものやお掃除の楽しさは、目に見えて美しく整っていくということが一つある。
すがすがしくて気持ちがいい。
何かを洗ったり磨いている時、そのモノや部屋などに対して優しい気持ちになるのだ。
ありがとう、いつも黙って提供してくれて。
これは一種の愛の関係だ。
だからきっと、いい気持ちになって嬉しくなるのだ。
愛とは二人の関係だから、私が注ぐとあちらからもそれだけ返ってくるのだ。

人は時に気まぐれだったりもする。
気持ちが届かなかったり誤解されたりもする。
でも、お掃除や荒いものをしている時には、たいていすなおに愛が返ってくる。

これがきっと、私が洗いものが好きな理由です。

忘れてた!

私、死ぬんだ・・・

でも、今まだ生きてるよ。
ありがとう、本当にありがとう。

重くって融通が利かない、不便な体だけど、障害物競走みたいで、だから面白いのよね。

今まだ生きてる。
この不思議な恩恵と幸運!

今日は愛するあなたに会えた。
明日も会えたら、HUGして!
会えなかったら、イメージの中でHUGして!

私の死に方

みなさんはどういう死に方がしたいですか?

中学2年のときホームルームでみんなでどういう死に方をするか想像したことがあった。
で、私はクラスのみなから、「恋のもつれでオトコに刺されて死ぬ」といわれて、ええってびっくりしたことを覚えてる。すごく印象的だからよくおぼえてるんだけど。
実はもう、そういう情熱的な恋の季節は通り過ぎたような気がして、なんとなく生き延びてきたことに感謝してるんだけど。(ちょっとさびしかったりもします。笑)

一体どういう死に方をするのかなあ。
どういう状況かわからないけど、ひとつだけ希望がある。
天に戻れる喜びで、歓喜に満ちた最高のスマイルで逝きたいということ。
だから、痛みのコントロールは絶対に欲しい。
それがかなわなくても、たぶん、私の場合、耐えがたい痛みは意識をなくすってことを知ってるから大丈夫だろう。

で、問題は、いつ死ぬかわからないってこと。
準備していられないのよね、突然だモンね。

で、どうするか。
今、次の瞬間にしんでもいいように、いつも準備してることしかないなあ。
つまり、いつも、最高のスマイルをして生きていくことだ。
この、今という最後の瞬間に。
これしかない。

というわけで、すべての瞬間に喜んで楽しんで笑っていくという課題が残される。
そう。
もし、墓碑があったらかいて欲しい。
「故人はいつも笑っていた。今も笑ってる。そしてずっと笑っているだろう。」
遊びでもいいなあ。「いつも遊んでいた。」(事実だ。笑)

死を遊びだと考えるって発想だって、きっと、永遠の別れだと思う人には不謹慎なんだろうな・・・
ちょっと誤解されそうだな・・・野暮だけど説明しておきます。

ゲームみたいに、リセットしてやり直しになるってことじゃないんだけど。
だから、都合悪くなったら終わりにしちゃおうって、そういう遊びじゃないのよ。
この遊びの得点は、ここに生きてる間にどれだけたくさんの人を笑わせたか、つまりハッピーな気持ちにしたかで測られるんだから。
途中でゲームやめたら、ハイ、ゲーム終了よ。
一番つまんないよ。

やってやるぞ~~~
なんか待てないなあ、楽しみ~~

禁欲主義の快楽追求

ストイックな人は、一見快楽と反対方向を求めているように見えるけれど、実はそのプロセスの中でめちゃくちゃな快楽を追求している。

つまり、何かを我慢することは、最高の快感を得るための必須条件だからだ。
空腹は最良のソースという。
どんなにグルメを追及してミシュラン登録のお店でいただくお料理より、空腹で死にそうになっているときに食べる塩おにぎりには勝てないんじゃないかと思う。
性だって、我慢すればするほどそのあとの解放による快感はたとえがたいものとなる。
苦難の連続のような人生を歩むとき、通りすがりの見知らぬ人の微笑や、道端の名もない花にどれだけ慰められることだろう。

苦労を求めてるように見える人がいる。
なぜなんだ?と思って不思議だったけどよくわかった。
人生を楽しみたいからなんだ。
喜びに浸ってうっとりとこの快感を味わいたいからなんだ。
意識してなくても、きっとそうなのよ。

愛するあなたへ
究極の快感を創造しながら、今日もストイックに楽しんでください。

単純すぎる正論

世の中の苦しみや問題は、実はやっていることをみんなが半分にして、睡眠をたっぷりとってぼけっとお空でも見ていたら解決すると真剣に思う。

なぜいらいらするかって言うと、忙しくてやるべきことに追われているからだ。
ロハスを提唱する講演会やプロジェクトで走り回るほどおかしなことはない。
誰かが言わないと気がつかない人がいるのは事実だけど。

まあ、いわなくてもいいのよ。
ただ、楽しそうに自分がゆっくり楽しんでいたらいいのよ。

家族のふれあいがないですね・・・なんてケース会議で議論する前に、おうちに帰って家族と一緒にご飯を食べてください。
運動不足ですね・・・なんてメタボにアドバイスする前に、フィットネスに行ってしゃきっとはつらつになって診療してください。
睡眠不足はミスや精神の不健康を引き起こすと言う論文の執筆投稿に徹夜してるおばかさんたち!

なんてみんなそろって(わたしもふくめて)あほ!

なんかへんだよ、みんな。

正しさと美しさ

たとえば理由もなく、悪夢に悩まされる人がいるらしい。
小さい頃のトラウマかもしれないけれど、その子にはまったく責任がない話だ。
また、理由がわからないまま、不健康や悪に惹かれる人がいるらしい。
自分でもいやだ、健康になりたいと思いつつ、悪癖がやめられない人がいるらしい。

一方では、清く正しく美しく生きるのを喜びとして、難なく道徳的で社会貢献するのを楽しみに生きている人がいる。

この違いはどこから来るのか。
心理学者は学習理論を駆使して説明しようとする。
データで証明しようとするんだけれど、いつも引っかかるのは、同じ環境で同じ刺激を受けても個人的な反応はさまざまであるということ。
モチロンたくさんの人が同じような反応をしたら統計的に優位だとして、心理学理論となる。
でも、個人差は依然としてある。
そして違いとか、例外のほうが臨床的には意味が大きかったりするのも事実だ。

それをみるにつけ、行動の責任は誰にあるのかと不思議な気持ちになる。
すべての行動責任は、その行動を選択しているその個人にある、精神障害でない限り、となるのだろうけれど。(精神障害を持たない人っているんだろうか?)
でも、個人って、そんなに強く責任をおえるものなのだろうか。
そう考えるから、人を許せないという発想がでてくるのではないだろうか。
自分の行動を考えてみたらいい。
最大限度努力しても、できないことがいっぱいあるのだ。
その責任をとろうとするからうつになるのだ。
責任感の強い人は頼もしくて潔いけれど、ある意味、傲慢だ。

すべて私の責任ですって?
まさか・・・
どうすることもできないことまで責任を取らなくていいのよ。神様じゃないんだから。

かといって、なんでも流れに任せてるだけだから知らないというのも極端だ。
でも、責めることで事態が好転することはないというのも事実だ。
ネガティブ感情はネガティブ感情を生産してネガティブ行為を誘発する。
悪循環というものだ。
責める行為は、責任追及からきたりする。
弱く小さく、不完全な人間どおし、なぜ、責めるのだろう。

この責める責めないと言う性格傾向も、生まれつきで理由が説明できなかったりする。
となると、まったく持って、祈ることしかできないということになる。
頭で理解してもどうすることもできないことが多すぎるのだ。

正しい解決が見つからないときは、私は美しさを追及してみる。
そこに健全さのヒントを見つけられるからだ。

光と音

機動隊でいかめしい京都の街かどで、ふと目の前の教会の掲示をみたら、オックスフォードの聖歌隊演奏会が5分後に開演だと書いてあった。

突然予定を変更して、誰も知らない、初めての教会のチャペルに入ってみた。
ヨーロッパのチャペルに比べたらこじんまりした印象のゴシック建築で、両わきの壁には十字架の道行のステンドグラス。イエズスとマリアの像は、煙るほど香気あるユリの花束で華やかに飾られていた。

突然、18歳の私、洗礼を受けて信仰に燃えていたころの自分に戻っていた。
プロテスタントの学校に通い聖書研究などしながら、なぜ聖書的でないカトリックの洗礼を受けたのか。
冗談のような話だけど、私は実は、四谷のイグナチオ教会の、音楽とステンドグラス、教会建築の美しさとその静寂な雰囲気に圧倒されてしまったのだ。
教義なんか二の次だった。

美しいものは人を圧倒する。
音楽がクライマックスになるに従い、きらきらした透明な光の洪水が整然と周囲に降り注がれる。
その光は、コスモスではなく、まるでパルテノンの建造物のようにしっかりと真っすぐにそびえたつ。
そしてその光は、私たちを包みこみながら天上へと突き抜ける。

輝かしい音、色彩感あふれた音という表現があるけれど、実際に音は光を発する。
この澄み切った音の光は、音がなくなった後でもそこに満ちている。

その輝きを、細胞のひとつひとつで全部受け止めて。
そして、お家に帰ろう。
そう、お家に帰るのだ。

ひどい誤解

攻撃は最高の防御だって?
傷つけられたくなかったら傷つけろ!
奪われたくなかったら奪え!!

めちゃくちゃひどい誤解だ。
いつからこんなばかげたことを信じるようになってしまったのだろうか。
目の前の一瞬のことしか見えてないから生じる誤解だ。

なんていうこと!

他者を傷つけて一番傷ついているのはあなた自身だってこと。
奪ったつもりでどんどん奪われてしまっているってこと。

与えれば与えるほどますます与えられるって法則は、実践して初めてわかってくる。

カッコウつけてるんじゃないの。
善人ぶってるんじゃないの。
我慢してるんじゃないの。

そのほうが気持ちよくて幸せになるからやってるだけで。

お願いだからもう、あなたを傷つけるの、やめて。
あなたが傷つくときに、私も致命的な傷を受けてることに気がついて。
お願いだから、もうやめて。

自分のことなら耐えられる。
でも、あなたの傷つくのはみていられないんだ。
お願いだから、もうやめて。

プロフィール

尾崎真奈美尾崎真奈美

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。ペンシルバニア大学医学部精神科、東京大学医学部公衆衛生学研究室などを経て、現在相模女子大学人間心理学科准教授、米国サーチインスティチュート、スピリチュアリティ発達センター客員研究員。
インテグラル心理学・スピリチュアリティ論・芸術療法などを教えながら研究、ダンス、執筆活動を続け、科学と芸術の統合を試みる。
天使語同時通訳は日々のインスピレーションの書き散らしである。
日本トランスパーソナル学会理事。日本心身医学会、日本トランスパーソナル心理学・精神医学会、国際生命情報科学会、国際ポジティブ心理学会会員。

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