
昨日 ワークショップの源流を探る会 2回目に参加した。
参加は
ワークショップ主催者、
ファシリテーター、
大学講師
プランニング・ディレクターなど
みんなワークショップの源流に
つながってるのではないかと思われる
ジョン・デューイの「学校と社会」という本を読んできたので
それについて意見を交し合うということになった。
その中ででてくるのは
体験学習の重要性や
学校が生活との関連の重要性
児童中心主義
そして
自ら考え行動できる人間を育てるという考え方だ。
これはワークショップランドも含めよくある
ワークショップというものの特徴を言い表しているように見える。
主体性を重視し自発的行動をよしとする風潮。
しかしはたと立ち止まって考えると
果たして全員が全員そんなことをする必要があるのか?
という疑問にぶち当たる。
全員がすべてのことにおいて自分で考え、行動するというのは
やはり西洋的個人主義の肥大にも思える。
日本人が大切にしてきた
和 をもって貴しとなす
という精神とのバランスはどうなってしまうのか。
全員が全員、ものすごいリーダーになったら
誰がそのリーダーに賛同し事を起こすのか、
全員が全員 社長になったら
いったい誰がその会社で働くのか
果たしてリーダーが偉いのか、社長が偉いのか、
人の上に立つことがいいことなのか
人の役に立つことがいいことなのか
そして大前提として民主主義をよしとする風潮も。
日本はながく民主主義、そして資本主義できているが
これからも未来永劫それが続くとも限らない。
また日本的民主主義は
積極的に社会参加をしているわけではないので
いわゆる民主主義でもない
民主的に平等に公平にみんなを同じように扱うこと
それが絶対的な価値観ではないのかもしれない。
みんな同じということとみんな違うということのハザマで
いろんなトラブルや問題や考えなくてもいいことまで
考えてしまう風潮を生み出すのかもしれない。
そんなことを考えると自分が持っている
物事を判断する上でも前提自体を
一度疑ってみる必要性を感じる。
いま、人に何かを教えること への疑問
が自分の中に芽生え始めていることに気づいている。
果たして、人はなにかを教えられる必要がある生き物なのか
はたまた、自ら勝手に学んでいく生き物なのか
これは久しぶりにこないだ地元へ帰っておもったこと
俺の地元の仲間はみな 俺を含めていわゆるきちんとした
教育を受けたものはいない
中卒、高校中退がほぼだ。
が、25年の付き合いになる彼らはいま
全員がきちんと自分の道を自分の足で切り開き、
親方になっている。
自分の店をもったり、会社を経営していたりする。
少なくともぷらぷら遊びほうけている人間は一人もいない
学歴がない分、みんな人一倍 まじめに働く、
人のせいにできない分、責任感も強い。
それこそ 自分で考え自分で決め、
自分で行動し結果も自分で受け容れる。
そんな資質が勝手に身についているようだ。
それを見て、俺はすごく誇りに思えた。
自分たちは決して社会の落ちこぼれでも落伍者でもないのだと。
そういうものを実際にみると果たして教育は必要なのか?
という疑問にぶち当たる。
また
人を 育てる ということへの疑問も・・。
果たして 人を育てるなんてことができるんだろうか
それとも 勝手に育っていくものなのだろうか。
3人の娘の父親として
彼女たちにできることはなにか、
精一杯、俺が自分を生きること以外 なにができるのか
もちろんできるだけ一緒にいて同じ空間でおなじ時間を過ごすことは
できるしそうしているが
それが果たして育てていることになるのかどうか、
それは彼女たちのためにしていることでは絶対にないし
おれ自身の喜びだからそうしてるわけで・・・・。
非構成的になにかを行おうとするのも
やはり、どこかにある答えを皆で共有するのではなく
新しい可能性やまだ見たこともない種を見出したいからかもしれない。
ゆえに ファシリテーター(促進者)という
アイデンティティにも少しの課題を見出してしまうのだ。
長くなったのでこれぐらいにしておきます。
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