
スーザン・オズボーンさんと日本の若者達の間のトークの司会をしたときです。
彼女は日本の歌を英語にして歌っていらっしゃる方です。
(11月6日9:00 p.m.にBS2にて彼女に関する番組が放映されるようです。)
国立オリンピック青少年記念センターのホールが大聖堂のようになり、彼女の声が反響して、彼女の素晴らしい声に控えで待っていた舞台袖で思わず身体が動き出しました。
その後のスーザンさんのお話も素晴らしかったのです。
「静寂の中に自分の本来の声を思い出そう。」と若者達に自分の夢を信じるように伝えていました。
同時に今の若者が自由なようでいて、本当の自分の声を表現する事に、実は大変な勇気がいると思っている事も分かりました。
日本は他人の意向を真っ先に気にしないといけない社会というのが5人の若者の、最も気になることの共通点でした。表現したい事があるのに、本当の自分の声を発したら受け入れられないのではないか?という不安を持っているなんて、私も彼らと同じように感じて、自分の踊りを探しにアメリカに行った理由と余り変わらないという事が分かりました。
私にとってNYが舞踊家として成長する場として良かったのは、この「自分の声を表現する」と言うことを励ましてくれる所だったからです。
そして、最後には自分が自分を認めることが最も大切だと分かったのですよ。人の承認や批評家の評価は、私の表現の存在価値とは関係の無い事。自分が受け止める事のできる表現は、それを喜んで受け止めてくれる人も居るということです。
そして、同時に、今の自分が、彼らよりずっと年をとり、日本に帰ってきて6年も経っているのに、気をつけないと自分も同じパターンに陥るときがある事に気がつかされました。
何故でしょう。文化のせいにはしたくないのですが、自分が生まれ育った場所なので、周りの要求を察して行動する事が身に付いているのでしょう。勿論良い面もあり、グループとしての日本人の調和的行動と、まとまりの強さは周りの人の要求を察するスキルに有るかと思います。
でも踊りを創るときはそれだけでは出来ません。自分の創造力を信じて動き出すときは、概して孤独が必要です。
というよりも、「自分の中の静寂を思い出す事。」というスーザンさんの言葉がぴったりです。
身体の中に静寂を思い出す時間がどうしても欲しくなり、時間があると身体の中に居ようとしています。(エッセイの更新が遅れちゃってごめんなさい!)
余談ですが質問!舞踊家としてコンピューター得意な方に聞きたいのですが、コンピューターと付き合いつつ身体の静寂を保つ方法を知っていたら是非教えてください。
今模索中です。
私は、舞踊家です。
他に色々な仕事もしているので、絶えず踊っているわけではありません。
でも、ダンスという、その時をフルに生きる方法を知っていて本当に良かったと思います。
私にとっての最初のダンスは、生きたい!という衝動でした。
若かった母が亡くなった時身体の儚さを目の当たりにして、私も儚い存在だけれど生きるならこの身体をフルに使って生きたいと思いました。そして、その時ダンスが自分の心を素直に表現する事を助けてくれました。
私は踊ること無しには自分の本当の気持ち、深い魂の声にアクセスする事が出来ないのです。それを探すのが私にとってのダンスを創る事です。そういった深い声はその人の存在=身体でしか汲み上げられないものです。
ダンスを人と共有する時は、身体を通じてその声を生き返らせるようにします。すると見た人から、私が知らなかったその踊りの別のメッセージを教えてもらえたりします。本当にありがたい事をさせて頂いています。
スピリチュアリティーとは、その人固有にしかない存在を通して、大きなつながりに到達する事なのでしょう。ダンスも一つの方法であり、私はダンスから多くの宝を頂きました。
これから、そんなダンスを共有する試みの中で、感じたことを書いてみたいと思います。
どうぞ宜しくお願いします。