
翻訳塾が順調に滑り出した。人に翻訳の技術を教えるのははじめてのことなので、いろいろ考えさせられることも多いが、添削指導することで、わたしにとって勉強になることもたくさんある。これまで何気なくやっていたことを、いちいち言葉で説明しなければならないからである。
添削していてもっとも面白いのは、翻訳する人の心のあり方が文章に如実に反映されることだ。たとえば、大胆で行動派の人は、あまり文法を気にせず、「やっちゃえ」という感じで訳すことが多い。それがツボにはまると、思いがけない名訳になるのだげ、
どちらかというとツボにはまらないことが多く、「おいおいまってよ」という気持ちになる。
機能的な英語と違って、日本語の表現はバリエーションに富んでいるので、適切な言葉の選択に苦労するのだ。わたしの翻訳の師である吉福伸逸さんは、翻訳とは瞑想であると言ったが、まさにその通りだと思う。心の中の雑念が文章ににじみ出てくるのだ。
現在、『いましめを解かれた魂』という本を翻訳しています。アメリカでヨガの道場を開いている人物が書いたもので、自分というものをさまざまな角度から探求した本です。アメリカではかなり話題になっており、とくにカウンセラーやセラピストに読まれているようです。でも、日本語にするのは難しい、かなり手こずっています。
著者の主張の核心は脱同一化にあります。つまり、自分の自覚に昇るもの──思考、感情、感覚など──を次々にあげつらい、それらが意識の対象であって「自己」ではないということを証明していくのです。本当の自分とは最後に残ったアウェアネス、すなわち純粋意識だというわけです。
そのうちにこのブログで詳しく紹介していくつもりです。(菅)
昨年の年末、膀胱がんの手術をした立花隆のドキュメンタリーを見ました。現在、がん治療がどこまで進歩し、いつごろ人類はがんを征圧できるのか? ふたたびがんが再発したら、どのような生き方を選択すればいいか? という二つの疑問を胸に、世界のがん治療の最前線を取材する番組です。
がんは細胞分裂する際の情報伝達の不備によって生じるのですが、絶え間なく細胞分裂を繰り返して自己刷新する道を選んだ人類にとって、宿命的なものだと立花氏は語っています。この不備のメカニズムはまだ全然解明されておらず、解明されるまで少なくとも半世紀、ひょっとすれば一世紀以上かかるだろうというのが最前線の科学者たちの見解のようです。つまり、人類によるがんの征圧は半世紀以上先になるということです。
であるならば、今度、がんが再発したら、治りもしない治療を受けて生活の質を落とすようなことはせず、戦う(苦悩の原因は戦うことにある)のをやめて、死を受容し、死ぬ間際まで笑いを失わない生活をしたい、という結論に彼は達したようです。とくに彼は現在69歳で、もう十分に生きたという感覚があるようです。この先、がんと戦って悲壮な顔をして生きるより、死を受容して、笑いながら生きたいというのです。
彼のような選択をする人がこれから増えてくるのではないかと思います。
今日は良く晴れ上がっていますが、昨夜からまた妻にとって恐怖の群発地震がはじまりました。今、これを書いている最中にも小さいのがきました。僕は案外平気で眠れるのですが、ちょっとでも揺れるたびに妻が跳ね起き、まるで夢遊病者みたいにどこに行くのかうろうろしだすので、おちおち寝ていられません。せっかく首ホットン(首に巻きつけるホッカイロ)で熟睡できるようになっていたのに、その効果も帳消しです。興味深いのは、昨夜から何十回も揺れているのに、TVのニュースで群発地震がはじまったと誰も言わないことです。年末を控え、稼ぎ時のこの時期、群発地震がはじまったとなると、客足に大きな影響が出てしまうからでしょうね。
最近、翻訳を手伝わせてくれという人が結構いて、試しにやってもらうのですが、なかなか上手く訳せず、中途半端になってしまうことが多いので、出版翻訳を目指す人たちを応援するためのネット翻訳塾をはじめることにしました。2年ぐらいかけて基礎的な翻訳力を身に着けてもらい、その後、僕の翻訳の下訳や電子ブックの翻訳で実習を積んでひとり立ちしてもらうというのが構想です。実力がついた人たちで翻訳グループを結成し、これからの本の電子化に備えてコンテンツを作れればいいとも考えています。電子ブックの魅力は費用がかからないことです。そのため、本という形では出版しにくかったものも出版が可能になるというメリットがあります。出版不況などと言って嘆いていてもしょうがないので、新しい需要を掘り起こすようなプロジェクトをどんどん考えていきたいと思っています。興味のある方は僕のサイトに詳しいことが書いてあるので、尋ねてみてください。
物が溢れています。よほど気をつけていないと、身の回りがガラクタだらけになり、ゴミの山に埋まってしまいます。今は、獲得する技術より、捨てる技術が必要な時代だよね。カレン・キングストンの『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門』という本が超ロングセラーになっているのも当然なような気がします。
食べることだってそうです。いかに食べないかが今や問われる時代です。いっぽうに食べ物がなくて死んでいく子どもがたくさんいるのに、食べ過ぎて、体重を減らすために苦労している人がたくさんいる。なんだか変。
「あなたはメタリック・シンドロームです。健全な肉体に戻すために、講習を受けてください」という知らせが、ガリガリに痩せていた三十数年前の結婚式のスーツがまだ着れる僕のところに送られてきました。冗談じゃないよ。いらないお世話だ! なんて思いながらも、講習会にでないと我が家まで押しかけてくるという脅し文句が書いてあったので、しかたなく行ってみると、みな恰幅が良い人ばかりで肩身の狭かったこと。胴回りを測定するというので、思いっきり腹を突き出してやりました。
内閣府の調査によると、20代、30代の若者の6割が子どもを欲しくないと言っているそうです。これをどう考えるかは人それぞれでしょう。一概に困った傾向とばかりは言えないですよね。エコのことを考えると、人口が多すぎることは確かですから。でも、このまま老人ばっかりが多くなっていったら、この国はどうなるのでしょうね。
これまでたくさんの男性とめぐりあってきましたが、あやかりたいと思う男性はあまりいません。でも、先ごろ亡くなった俳優の森繁久弥はあやかりたい男性の一人です。彼が人と話すときの、あの独特の間の取り方。あれは完全に自分が確立していないとできない間の取り方です。本気なのかとぼけているのか分からない彼の話し方を聞いていると、自己を確立した人だけが持てる自由さを感じるのです。それは虚実の狭間にいて、いつでもあらゆる方向に踏み出せる自由さです。僕なんかつい話しの流れに引きずりこまれてしまい、しゃべっているようだけど、ただロジックに踊らされていることが多いんです。僕だけじゃなくて、ほとんどの人がそうであるような気がします。既製品の言葉を鸚鵡返ししているだけで、そのことにも気づいていない人が多い。スピリチュアリティやエコロジーにはまっている人たちも例外ではありません。自分の言葉をもちたいものです。
僕が森繁にあやかりたいと思うもう一つの理由は、何をしても、何を言っても、女性に憎まれない点です。彼は若いとき、とにかくかたっぱしから女性を口説いていたと言われています。それをすべて笑い話にしてしまうしたたかさを、一体どうして培ったのでしょう。うらやましい限りです。人間のエロスは、当人の心の持ち方で、うしろめたいものにもなりうるし、笑えるものにもなりえます。でも、ただ開けっぴろげだけでも、エロスがもっている神秘的なあやうさは表現されません。インターネットにポルノが氾濫していますが、エロは感じさせても、エロスを感じさせるものはほとんどありません。森繁のエロスとの関係は、やはり彼の人間性が反映されているのでしょう。
とにかく森繁久弥には楽しませてもらいました。ご冥福をお祈りします。
今日(25日)、この地域の新聞記者の女性がインタビューをしに家にやってきました。男女共同参画について話を聞きたいということだったのですが、話しこんでいるうちに、彼女が昨年陥った精神的な危機についての話題で持ちきりになりました。多分、話したかったんでしょうね。その話題になったとたん、すごい勢いでしゃべりだしたので、切実さがじかに伝わってきました。
現在、彼女は48歳なのですが、20年ほど前からローカルの新聞社に記者として勤めはじめ、精力的に仕事をこなしていたのですが、昨年の六月頃、突然、仕事が手につかなくなったというのです。医者に相談したらうつ病と診断され、抗うつ剤を処方されたらしいのですが、副作用がひどくて怖くなり、やめてしまったそうです。その後、免疫療法という代替療法を受けて序序に回復し、半年後に仕事に復帰したそうです。
苦しかったときに彼女が出会った一冊の本があったそうです。それが、なんとわたしがだいぶ前に翻訳して彼女に差し上げた『愛と親しさの鍵』(トマス・ムーア著、平凡社)だったのです。この本は人生の出来事を自我の観点からではなく、魂の観点から見るとどう見えるかを綴ったもので、彼女が直面した精神的な危機のようなものを、魂が成長するチャンスとして捕らえています。彼女は頭の良いインテリ女性ですから、社会的な適応力にもすぐれ、これまではバリバリ仕事をしてこれたのでしょうが、内奥の魂の欲求とすこしづつずれていったのではないかと思います。そのずれが限界に達し、精神的な危機として現われたのでしょう。今の社会、知的傾向の強い人はほとんどかならずと言っていいほど、ある年齢に達すると、身体的な病か精神的な危機に見舞われ、人生の軌道修正を迫られるのではないかと思います。それはいわば魂からの警鐘であり、全体性からの圧力のようなものかもしれません。人生は直線ではないんですよね。
昨今、出版不況で本がなかなか売れないのですが、八年以上前に僕が出した本で、いまだに毎年版を重ねている本があります。ジュリア・キャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(原題『Artist’s Way』)という本です。いわゆる創造性開発のプログラムなのですが、数ある類書の中でいまだに人気を保っているのは、キャメロンの手法がきわめてユニークだからでしょう。そのユニークな手法の一つが「モーニング・ページ」と言われるものです。モーニング・ページとは、三ページの手書きの文章で、意識の流れをありのまま綴ったものです。
たとえば、
今日は比較的よく眠れた。気分がいい。身体も軽い感じがする。二日酔いもない。毎晩、酒を飲む習慣をなんとかしなければならない。酒は脳細胞を破壊するという。もう何十年も飲みつづけているわけだから、俺の脳は相当やられているんじゃないだろうか。脳だけはやられたくない。仕事もできなくなるし、喜怒哀楽も感じなくなる。それは嫌だ。妻は庭造りに励んでいるが、いくら庭に美しい花が咲いても、感動する心を失ってしまったら、元も子もない。雨が降ってきた。寒い・・・
といった感じです。とにかく心に浮かんでくることを検閲せずに紙に書き起こしていくのです。その目的は「脳の排水」だとキャメロンは言っていますが、思いがけない気づきがあったと言う話を何人もの知り合いから聞かされました。このモーニング・ページ、翻訳家の山川夫妻がブログの中で紹介してくれたこともあって、ずいぶん広がっているようです。興味のある方は是非試してみてください。
タイトルに「運命」という言葉がついた本が最近やたらに目につく。『運命を拓く』『未来世療法 運命は変えられる』『チャンス――成功者がくれた運命の鍵』などなど。一体、運命とは何だろう? 果たしてわたしたちの人生には、あらかじめ決められた運命というものがあるのだろうか? 霊能者に聞いてみれば、もっともらしい答えが得られるだろうが、自分でそうした疑問に答えるのは簡単なことではない。
わたしはすでに六十年も生きているが、その間、親しい人たちの死にたくさん立ち会ってきた。中学時代に自殺した無口な友人、高校時代に病で急死した、できの良い一人息子の友人、新宿のビルの屋上から飛び降り自殺した知り合いの女の子、母親に死なれた後に統合失調症になり、入退院を繰り返した末、首を吊ってしまったいとこ、ちょうど五十歳のときに癌で死亡した仕事の同僚・・・このような悲運な人生を送った人たちははじめからそのような宿命を背負わされていたのだろうか?
わたしが昨年、さる出版社に頼まれてその著作を翻訳したイングランド生まれの哲学者ジェームズ・アレンは、この世で起きる物事はすべて前世にその原因をもっていると言い切っている。わたしはそのような運命の因果論というものを信じていない。というより信じたくないと言ったほうがいいかもしれない。人間は宇宙の子どもであり、あらゆる運命の種をもって生まれてくると考えるのがわたしは好きである。その中のどのような運命を選び取るかはその人の生き方にかかっていると思うのだ。もちろん、どのような家庭に生まれるかで、人生が大きく左右されるのは否めない。でも、家庭環境がすべてを決すると考えるのは行き過ぎである。実際、わたしの周りには、恵まれない子ども時代を送りながら、大人になってから精一杯自分を発揮して生きている人がたくさんいる。すべてが自由意志で決定できるとは思わないが、運命ですべてが決まるとは考えたくない。
ただ、年を重ねてくると、どうしようもない生き方の癖のようなものがあるということに人は気づかされる。わたしは痩せてひょろ長い体型をしているせいもあって、はたから見ると飄々としているように見えるらしく、よく気楽でいいですねなどと人に言われる。しかし、実際にはかなり気難しいところがあり、やさしそうな仮面の下に攻撃性を隠している。それが酒を飲んだときなどに強く表に出てくるときがあり、自分でも面食らうことがある。それは言ってみれば、わたしの魂の傾向性のようなものかもしれない。年を取れば取るほど、隠れていた性格が表に出てきやすくなるような気がする。占星術師の鏡リュウジ氏にわたしのホロスコープを作ってもらって占ってもらったところ、ずばりそうした二面性があることと、野心家であることを指摘され、驚いたことがある。占星術というものが、馬鹿にできないものであることをそのとき知った。
運命という言葉ははなはだ都合のよい言葉である。自分ではどうしようもない事態に直面したとき、それを運命だと思えば、あきらめもつく。逆に、運命を口実にして、努力を怠る人もたくさんいる。運命とのもっとも上手な付き合い方は、「人事を尽くして天命を待つ」ということわざに集約されているのではないだろうか。最近、八二歳の義理の母親が亡くなったとき、そのことを痛感させられた。人間にとって、とりわけ年老いた老人にとって、死は避けられぬ運命である。しかし、死の床にある義理の母親も、それを見守るわたしたちもその運命たやすく受け入れるわけにはいかない。精一杯、生きる努力をし、精一杯、生かす努力をしたとき、はじめてその運命がまっとうできるからだ。死ぬ運命とは、どうやら、精一杯、生きる運命と同義であるようだ。
クリステル・ナニ著・菅靖彦訳
草思社
(左:クリステル・ナニ)
人の病の原因を見抜くすぐれた透視能力と豊かな学識を兼ね備えた直観医療のヒーラー。ニューヨークのもっとも忙しい緊急救命室(ER)で一六年間、外傷看護師として働いた後、フルタイムの直観医療者となる。これまで数千人のクライアントのリーディングを行い、直観医療の分野で、今やリーダー的な存在となっている。彼女の能力を「本物」として認める人は多い。ワークショップや講演なども積極的に行い、国際的に活躍の場を広げている。著書には、本書の他に、『Sacred Choices: Thinking Outside the Tribe to Heal Your Spirit』『Guidance 24/7: How to Open Your Heart and Let Angels into Your Life』などがある。
とても面白いスピリチュアル・ブックを翻訳したのでお知らせします。読むクスリになる本です。人が病気になる仕組みをこれほど明快に解き明かしてくれる本はめったにありません。
しかも、並外れた直観能力をもつ著者の言葉は、それ自体がスピリチュアルなエネルギーに満ち、読む者の心にダイレクトに入り込んできて、なんとも言えない清涼感をもたらしてくれます。わたしが本書の翻訳を思い立ったのも、そうした清涼感を分かち合いたいと思ったからなのです。とにかく読んで、著者の霊妙な力に触れてみてください。
生粋のニューヨーカーである著者のクリステル・ナニは、直観医療者として、現在、国際的に活躍しているスピリチュアル・ヒーラーです。「直観医療(Medical Intuitive)」とは、人々の病の原因を、その人物の気やエネルギーの状態から直観的に読み取る診断法を指します。この言葉をはじめて世界的に有名にしたのはアメリカ人女性、キャロライン・メイスです。キャロラインは最初、新聞記者として出発し、スピリチュアルな世界とは無縁の生活を送っていましたが、精神的な不調におちいったことがきっかけで、人々の病の原因を直観的に透視できるようになりました。そこで一九八四年頃から、ノーマ・シーリー博士という神経外科医とタッグを組んで直観医療の技術を磨き、直観医療の科学というものを築き上げていったのです。その結果が『健康の創造』という本になって結実し、世界的な評価を得ることになります。
一九九二年、二人は直観医療の教育プログラムを作り、直観医療者の育成をはじめました。その結果、現在では一万人以上の直観医療者が活動していると言われています。一九九六年、キャロラインは長年の研究成果を『七つのチャクラ』(サンマーク出版)という本にして出版し、直観医療という言葉を世界的に広める役割を果たしました。
著者のクリステル・ナニはキャロラインの教育プログラムで直観医療ができるようになったわけではありません。八歳のとき、突然、自分が透視能力をもっていることに気づいたのです。本書はそのときのエピソードからはじまります。クリステル自身は自分の特殊な能力をうとましく思っていたようです。そこで、彼女は大学で西洋医学を学び、ニューヨークのもっとも忙しい病院の救急病棟で看護婦として働きはじめました。そこで十六年間働いたのですが、その間、医師が患者を診断する前に病気とその原因がわかってしまうエピソードが続出したそうです。自分の診断が正しいことは、後の医学検査で明らかにされたと言います。
本書の前半部分は、子ども時代の不可思議な体験にはじまって、救急病棟の看護婦になり、数々の神秘的な体験をするエピソードが綴られています。それらの体験はまことに興味深いものです。救急病棟は彼女にとって直観医療の技術を磨くための格好の舞台になったのです。
自分の特殊な能力を最初はうとましく思っていたクリステルも、最後にはそれを一つの恵みをとして受け入れるようになり、人々の癒しのために活用するようになります。直観医療はエネルギー医学や波動医学として語られることもあり、本書の中でクリステルは二五以上のケーススタディを取り上げながら、エネルギー医学の観点から見た病の原因、エネルギーを高める方法、エネルギーを枯渇させる信念、思考や感情の身体への影響、情緒的なパターンと病の関わり、乳癌や前立腺癌の引き金となる要素などを分かりやすく解説しています。クリステルが他の直観医療者と大きく異なる点は、直観で病の診断ができるだけではなく、病を癒す力をもっているということです。
現在、日本は空前のスピリチュアル・ブームだと言われています。このブームは日本だけのものではなく、世界的なものです。とくにアメリカでは、昨年『The Secret』という本が発売されたのを機に、Law of Attraction(引き寄せの法則)というスピリチュアルな法則がクローズアップされています。実は「類は友を呼ぶ」というこの法則こそ、直観医療のベースになっていることが、本書を読み進めていけば、分かると思います。
原題は『Diary of a Medical Intuitive(直観医療日誌)』。クリステルは現在、個人カウンセリングに加え、ワークショップや講演活動などで、国際的に活躍の舞台を広げています。
アランが亡くなりました。飼っていた飼い犬です。名前はオスですが、性別はメスです。享年18歳。人間の年齢に換算すると、90歳以上だそうです(最初の一年は20歳年を取り、その後は毎年4歳づつ年を取るのだそうです)。
小さな骨つぼに入れてもらって、ダイニングの置き台の上に置いています。ペット・ロスになるほど愛していませんでしたが、やはりさびしいですね。つくづく感じました。家族って関係性なんだなって。
アランの存在意義は大変なものでした。元々は、娘に兄弟がなく、遊び相手になってもらおうと思って知り合いからもらったんです。娘がまだ3歳ぐらいの時で、当時、白黒模様の牛に興味をもっていたものですから、何匹かいた子犬の中から白黒模様の子犬をもらってきました。母犬に踏んづけられた後遺症で少しビッコをひいていたのですが、我が家の周りの野原を駆け回っているうちに直りました。
娘は大の犬好きになり、はじめてアルバイトをする時に、ドック・フォレストという犬を遊ばせる施設を選びました。糞をてづかみで片づけさせられる仕事だったんですが、嫌がりもせずよくやりました。
娘が成長してからは、おじいちゃんの散歩相手として、アランはいなくてはならない存在になりました。なにしろ、家のおじいちゃんは無口な人で、家の中であまりしゃべらなかったのですが、アランとはよくしゃべっていたようです。
おじいちゃんが亡くなると、今度はおばあちゃんの散歩相手になりました。おばあちゃんは毎日、アランと散歩するせいで、すっかり足腰が丈夫になり、87歳の今もピンピンしています。わたしたち夫婦も長年、アランと散歩していたせいで、足腰が相当きたえられました。
つまり、アランは我が家の人々に健康をもたらす使者としてつかわされてきたのです。そのアランがいなくなってしまった今、自分で自分の健康のめんどうを見なければならなくなりました。
アランの死が教えてくれた一番の収穫は、家族を構成している人間がそれぞれに存在意義をもち、いろいろな役割を果たしているということを、考えさせてくれたことです。
アランよ、安らかに!
現代社会では、漠然とした不満やむなしさを感じながら生きている人が多いように思います。これほど物があふれ、さまざまなエンターテインメントがあるのに、現代人はどうして不満やむなしさに襲われるのでしょう?一つには、物がありすぎるため、あれもほしい、これもほしいという欲望がとめどなく膨らみ、満たされることがなくなったと言えるかもしれません。欲望というのは基本的に限りがないものだからです。
シカゴに生涯学習研究所を設立し、この二十年、斬新な自己成長プログラムを多くの人々に提供してきたライフ・コンサルタントのジュディス・ライトは、昨年、『There must be more than this』(人生こんなものじゃないはずだ)という興味深い本を著し、その本の中で、「ソフト・アディクション」が多くの人から充実感を奪い、人生をむなしくさせている元凶になっていると述べています。「ソフト・アディクション」とは、「軽度の嗜癖」という意味です。彼女が「ソフト・アディクション」というコンセプトを思いついたのは、自分のセミナーに参加する人々の多くが、何気なくテレビを見る、あてもなくショッピングをする、人の噂話に興じる、何時間もネット・サーフィンをするといった習慣をもっていることを見出したのがきっかけでした。そのような習慣はドラッグやアルコールへの依存のように強烈ではないため、一見、無害に見えるのですが、その実、人々のエネルギーを消耗させ、充実した有意義な人生を送るのを妨げる大きな障害になっていることを発見したのです。
嗜癖の特徴は決して満足をもたらさないことにあります。それどころか、むなしさの感覚を生み出し、さらなる依存に駆り立てるという性格をもっています。多くの現代人が「足ることを知る」のを忘れているとすれば、それはあまりに多くの物やエンターテインメントに取り囲まれているため、能動的に生きる姿勢を手放してしまい、なんらかの嗜癖のサイクルにはまりこんでいるためではないかと思うのです。では、そうしたサイクルから抜け出すにはどうしたらいいのでしょう?
結論から先に言ってしまえば、受動的な気晴らしでつぶす時間を減らし、自分のやりたいことを見つけて、それに注意を集中する時間を増やすことが必要です。というのも、散漫な意識の状態でいると、どうしても不安や悔恨の情が意識に混入してきて、気晴らしがほしくなってしまうからです。
シカゴ大学に籍を置く心理学者、チクセントミハイは芸術家、スポーツ選手、音楽家、チェスの名人など、自分の好きな活動に従事している「達人」たちに面接調査を行い、彼らの説明から最適経験(オプチマル・エクスペアリエンス)を生み出すフローという考えに行き着きました。フローとは、一口で言えば、何もかも忘れてある活動に没入し、その体験自体の楽しさゆえに、何時間でも労力を惜しまない状態を指します。たとえば、寝食を忘れて制作に打ち込む画家の姿、それがまさにフローしている状態です。人はフローしているとき、わずらわしい自意識から解放され、宇宙との一体感を覚えることすらあると言われています。
日々の生活の中で、フローしている状態が多くなれば、散漫な意識の状態でいることは少なくなります。詩を書く、庭の手入れをする、テニスをするなど、なんでもいいのですが、うまくやれるようになれば、やりがいがでてきて、熱中できるようになります。それがフローの性質です。ただし、フローを招き寄せるには、明確な目標をもつ、自分のした行動の結果に注目する、自分のスキルとやろうとしていることの難易度のバランスを調整する、そのときどきに手がけていることに集中するといったことが必要だとチクセントミハイは述べています。
フローに生きることが多くなれば、当然、充実感が増し、むなしさや漠然とした不満に襲われることが少なくなります。人間の飽くことなき欲求というものは、もともとあるものではなく、なんらかの精神的な飢餓感によって生み出されるものなので、充実した時間が増えれば、おのずと鎮まっていくでしょう。「足ることを知る」の真の意味がわかるのはそのときかもしれません。
先日、ある大学の新聞部の学生にインタビューをうけました。なんでも、「就職は是が否か」といったニュアンスの企画を立てたらしく、話を聴きたいと言ってきたのです。わたしは大学を卒業してから一度もまともに勤めたことがないので、もちろん、就職をしなくたっていいんじゃないのと言いました。でも、納得がいかなそうな顔をしていました。こちらからいろいろ聞いてみると、就職しないとどうも誰かに悪いと思っているようなのです。わたしはもちろんニートやフリーターになることを若者に勧めるつもりはありません。ただ、会社に入れば、それで安心というような時代では、もはやないんじゃないかと思うんです。
男にとってもちろん仕事は大切です。すぐに名刺を交換したがりますしね。肩書きがないと肩身の狭い思いをすると思い込んでいるふしがあります。その最大の理由は、仕事=自分の価値という等式を無意識に信じ込まされているからではないかと思います。そもそも資本主義の基本が、労働価値というものによって人間の価値を図ろうとするものだからだからです。そのようなシステムに乗れない人間はあぶれ者とみなされるわけです。この仕事=自分の価値という等式がわたしたちの心に重くのしかかって、さまざまな問題を生み出していると思うのです。勝ち組と負け組みなんていう嫌な二分法もそこからでてきていますよね。
だけど、自分の価値は仕事ができるできないで決まるわけではありません。人は誰しもかけがえのない存在であり、生まれながらにして価値をもっている。そこから出発しなければ、現在、問題になっているいじめの問題なども解決できないんじゃないかと思います。そうした無条件に自分を認める気持ちをどうやって育むかが問題ですよね。
わたしが訳した詩を一つ紹介します。マックス・アーマンという弁護士が書いたものです。教会のパンフレットなどで用いられていたため、古の聖者が書いたものだと思われていたのが、1927年になって弁護士が書いたものだとわかった、いわくつきの詩です。ヒッピーたちにもてはやされ、1972年にレ・クインによってレコード化されてグラミー賞を獲得しています。スピリチュアルな生き方の基本的な姿勢を描いたような詩なので紹介したくなりました。
DESIDERATA
切なる願い
あわただしい喧騒のなかに、
心を鎮めて入っていきましょう。
あなたの魂が静かであれば、
どれほど毎日が安らぐものとなるかを
思い出しなさい。
∞ ∞ ∞
他人に媚びへつらうことなく、
できるだけ、
出会ったすべての人と仲良くしなさい。
∞ ∞ ∞
本当のことを淡々とはっきり語りなさい。
そして、他人の言うことに耳を傾けなさい。
まるで正反対の意見の人や
無知の人の言うことにも
耳を傾けなさい。
彼らには彼らなりの人生の物語があるのですから。
∞ ∞ ∞
大声を出して、人の心に
土足で踏みこんでくるような人は避けなさい。
彼らは、純粋なあなたの精神には、
苛立ちの原因ですから。
∞ ∞ ∞
自分を他人と比較すると、
むなしくなるでしょう。
つらくなるかもしれません。
あなたより、優れた人もいれば、
劣った人もいるのが世の常ですから。
∞ ∞ ∞
未来の計画だけではなく、
成し遂げたことも楽しみなさい。
遠い過去へと去ってしまうまでは。
∞ ∞ ∞
どんなにつまらなく思える仕事でも、
自分の仕事に興味をもちつづけなさい。
それは、ころころ変わる時の運がもたらす
真の財産なのですから。
∞ ∞ ∞
仕事のことでは注意深くありなさい。
世間はごまかしに満ちていますから。
けれどもそのことで、
この世に美しいものがあることに、
盲目になってはいけません。
多くの人たちが
高い理想を目指してがんばっています。
あらゆる場所で英雄的な行為が
成し遂げられているのです。
∞ ∞ ∞
自分自身でありなさい。
とくに愛するふりをしてはいけません。
愛を嘲笑ってもなりません。
夢を打ち砕く不毛な世界を前にしても、
愛は雑草のように何度でも蘇るのですから。
∞ ∞ ∞
若気のいたりでしてしまう楽しみはもう放棄しなさい。
年寄りの忠告をやさしく受け止めなさい。
突然の不運に見舞われたとき、
自分を守るために魂を鍛えなさい。
暗い想像をして悩まないようにしなさい。
恐怖の多くは、
疲れと孤独の魂から生まれるのです。
∞ ∞ ∞
自分だけを正当化するのではなく、
他人の思いにも心を傾け、魂を鍛えなさい。
健全な鍛錬をした上で。
自分自身にやさしくしなさい。
∞ ∞ ∞
あなたは木々や星々と同じように
天から命を授けられた、宇宙の子どもなのです。
だから、この世に存在する権利をもっています。
∞ ∞ ∞
あなたが意識していようといまいと、
この宇宙は進むべくして進んでいきます。
同じように、あなたが神をどんなものと考えようと、
神は存在するのです。
神と仲良くしなさい!
∞ ∞ ∞
そして、あなたがどんな仕事をし、
どんな志を抱いていようと、
この騒々しい人生の混沌のなかで、
魂を平和に保っていなさい。
∞ ∞ ∞
まやかしが横行し、いやな仕事に追いまくられ、
何度、夢がやぶれても、
世界はやはり、美しいのです。
あなたの人生は、すばらしいのです。
顔を上げて、陽気に微笑んでいなさい。
あなたの幸せをつかむことに貪欲でありなさい。
数日前の新聞で、神戸の六甲山で遭難し、二四日後に救出されて助かった三五歳の男性の話を読みました。今年の十月七日に山頂付近で同僚とバーベキューパーティをした後、一人で下山しようとしたらしいんですが、途中で道に迷ってしまい、崖から転落して骨盤の骨を折ってしまったんです。当初のニュースでは、バーベキュー用のタレを舐めながら飢えをしのいでいたと報じられていましたが、どうもそうではないらしく、骨折して動けなくなってから二日後に意識を失ってしまったと言うんです。
妻がテレビを見て教えてくれたんですが、意識を失う前に、ものすごく美しい草原にいるビジョンを見たということです。いわゆる臨死体験ですよね。それから二十二日後の三十一日に心肺停止状態で発見されたんですが、翌日の夕方に意識が戻ったというんです。不思議ですよね。二十二日も心肺が停止していて、生き返るなんて。医師の話では、「冬眠状態に近かったため、臓器機能は落ちたが、脳の働きは回復したと考えられる」というのですが、人間は熊みたいな動物と違って冬眠する習性はありませんから、普通は脳がやられてしまうと言われているんです。ましてや飲まず食わずですよ。それなのに、この方の場合は違った。人間の可能性というものを考えるのに、貴重な資料になるのではないかと思います。
わたしはこの記事を読んで無意識の力を感じました。もし意識をもっていたら、こんな寒い時期に、たとえうまい焼肉のタレをもっていたとしても、とても二十二日間も生きてはいられないでしょう。たとえ仮死状態でも。というのも、人間の意識というものは、あれこれ考えて、どうしても限界を設定してしまうクセがあるからです。わたしは三十代の終わりに不眠症になったときにそのことを痛感させられました。何日も眠れないでいると、もうだめだと意識の方が先にまいってしまうんです。もし意識的にでも、自分は眠らなくても大丈夫なんだと強く確信していれば、相当体力はもつということをわたしは体験しました。意識がある限界を突破すると、無意識の力が沸いてきて、ギアが一段切り替わるのではないかと思うんです。そのときにスピリチュアルな体験のようなものが起こるんでしょうね。生還したこの男性にいつか話を聞いてみたいですね。
一九四七年生まれ、団塊世代の走りの年代です。来年は赤いチャンチャンコを着る年ね、などと言われてもまったくピンときません。年を取るのは早いけれど、精神年齢はなかなか年を取らないようです。大病でもして、もっと身体が弱っていれば、違うかもしれませんが。幸い、悪いのは根性だけで、身体はすこぶる丈夫です。
青春時代、カウンター・カルチャーに出会いました。学生運動とヒッピー。革命派と意識革命派。わたしはどちらかと言うと、後者に興味があり、ヒッピーの溜まり場だった国分寺のほら貝などにもよく行きました。たまたまわたしが勤めることになった新宿歌舞伎町のライトハウスというロック喫茶も、ヒッピー、売れない音楽家や芸術家、ダンサー、フーテン、ストリッパー、政治活動家などの溜まり場でした。偶然が重なってわたしはアルバイトしはじめて半年もしないうちにその店のマネージャーに抜擢されて、大学を卒業するまでの3年間、その店から三鷹にある大学に通いました。
ライトハウスでの体験はわたしにとってきわめて衝撃的なものでした。そのすべてをお話しすることはとてもできませんが、肩書きが一切通用しない世界でどうやって自分を打ち出していけばいいかということをそこで学んだような気がします。ヤクザも頻繁に出入りするそうした世界を自分が学生の身分でしきっていたというのが、今だに信じられません。
スピリチュアルなものへの興味がはじまったのもライトハウスだったと思います。音楽をやっている常連の客の一人から、カルロス・カスタネダの『ドン・ファンの教え』を紹介してもらって、むさぼり読んだのを覚えています。わたしの代表的な著作に『変性意識の舞台』(青土社)というタイトルの本がありますが、変性意識への興味が芽生えたのはこの頃(一九六〇年代末)からです。とにかく、わたしたちが日常見ている世界が、一つの世界の見え方にすぎず、意識が変われば、違った世界が見えてくるということに興奮を覚えたのです。
大学を卒業してからわたしはしばらくの間、ヒッピーのような生活をしていました。小金を溜めては、ニューヨークやロスに渡って数ヶ月ぶらぶらすごし、帰国してアルバイトをするという生活です。今で言うフリーターですね。でも、フリーターも三〇過ぎると、やっぱりやりづらくなってきますよね。ある電気店の倉庫でアルバイトしたんですが、高卒の正社員がいて顎でつかわれるんですから。一度、フォークリストの運転を誤り、新品の電気洗濯機を五台壊してしまったときには、本当に惨めな気分でした。
フリーター生活から脱皮するチャンスになったのは吉福伸逸さんとの出会いです。吉福さんの奥さんがたまたまわたしの大学の後輩で、間を取り持ってくれたのです。それからトランスパーソナル心理学の著作の翻訳をするようになり、呼吸によって意識を変容させ、無意識の素材を浮かび上がらせるホロトロピック・セラピーに関わるようになったのです。その後のことはおいおいこれから語っていくつもりです。
このコーナーでは、男にとってのスピリチュアルな生き方というものを取り上げていきたいと思っています。さしづめ鍵になるのは、仕事、お金、女性、性欲との付き合い方になるのではないかと思います。女性という存在は、六〇年近く生きてきた今でも、わたしにとって謎ですが、男性も女性にとっては謎多き存在ではないかと、勝手に思っています。その謎を解き明かそうなどという大胆なことは考えていませんが、謎解きの手がかりぐらいになれれば幸いです。
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