井上ウィマラのともにいのちを耀かせる瞑想とスピリチュアルケア

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被災地の声を聴いて

視察報告

(6月6日~9日、仙台市、石巻市、南三陸町、釜石市にて聴き取り)

 「心のケア」という視点で被災地に赴きましたが、現時点での「心のケア」は、全体的な生活支援を通して有効になるものだと痛感いたしました。

 津波被害のあまりのすさまじさに、泣くだけ泣くしかないなぁという気持ちになり、何度も泣きました。

 津波遊びをしている子どもを見かけたときなど、できればその場にしばらく留まってかかわりたいと思いながらも、一緒に遊んでくれているボランティアさんに声をかけ、やりきれなさをかかえながら次に移動するといった連続でもありました。

「あなたが直接来てくれるのですか?」という問いもありました。

 外部からのボランティア、現地の支援者、被災者でありながら救援活動に携わる人びとからの情報やニーズにこたえる体制を構築し、彼らのケアを含めて「心のケア」について長期的な取り組みをしてゆく必要があると思います。

 現地で活動する臨床心理士やカウンセラーさんたちとのミーティングでは、次のようなお話を伺いました。

・被災は半壊や部分的損壊であっても、「何かしなくてはいけないが、何もできないでいる」といった思いでうつ状態になって苦しんでいる間接的被災者が多い。

・自らが被災者でありながら、躁的防衛と思われるほどに過剰なまでにボランティア活動に入れ込むことによって身を保っている人もいる。

・被災者の間では、「あの人に比べたらまだ私の被災度は・・・、」といった比較をすることで、お互いに正直な思いを語れない状態に至っている。

・分かれた前夫の遺体と子どもとたちを対面させる過程におけるさまざまな苦悩。泣く娘、冷静に情報を記録する娘など、子どもたちのさまざまな反応。こうした状況を通して浮かび上がってくる家族のコンステレーションがあった。

・沿岸部(主に漁業従事者)と内陸部での反応の違いが大きい。沿岸部では同じ場所に住み続けたいという希望が過半数を大きく超えている。

・心理相談の場においても、葬儀や供養に相当するような儀礼的なことができるとよいかもしれない。

 南三陸町で、行政の手の届かない所に非難している人たちの救援活動をされている被災者Mさんのチームからは、3ヶ月が経ち死亡証明書が発行されると、百か日を大切にする地方なので葬儀が増えるだろうが、喪服がないこと。流されてしまった太鼓があれば、子どもたちに伝統をつなげたいという希望などを話していただきました。

 チリ津波のときに作った「津波復興太鼓」があるのだそうです。喪服や太鼓の提供を通して、少しでも心のケアにつながればと思います。

 心のケアというならば、子どもたち、特に親を亡くした子どものケアをしてほしいという被災地の声がありました。

 仮設住宅が設置され、抽選によって入居が進められていますが、生活支援の打ち切りや孤独化に関して多くの不安をかかえてストレスになっている様子です。仮設住宅への移動を支える物的支援体制や、移動後の戸別訪問による孤立化の予防など、行政や市民団体などと協力して対応を進める必要があります。

 瓦礫撤去や遺体捜索に携わる自衛隊員の中に相当なストレスが溜まっているようです。ねぎらいの言葉かけなどを含めて、彼らに心のケアが提供されるような体制作りにも心を配る必要があるでしょう。それがまわりまわって国民全体に還元されてゆくように思います。

 行政や政治家たちへの不満が高まっています。彼らへのケアを含めて、怒りの管理に関する取り組みも必要だと思われます。

伝統をつなげる

仏教で言う悟りの最初の段階である預流道に入るには次の3つの条件があります。

1.自分の身体を自分の持ち物で思い通りになるという思い込みを超越する。
(様々なご縁に生かされていたことに気付くことです)

2.社会宗教的な儀式や儀礼や監修の束縛を超越する。
(その場にあった新たな儀式や慣習を適宜創造できることでもあります)

3.外的権威に依存せずに自らを頼りとして試行錯誤する自己信頼が得られる。


こうしたことは、今のような状況でこそ求められるものではないかと思っています。

個人的状況であれ社会的状況であれ
その場に合わせて最適な流れを促進できる
ファシリテーター役を努める力に必要なものではないかと思われます。

いのちはどんな状況にあっても生きようとします。
そして、すこしでも幸せに生きようと。

執着を超えるとか、解脱するとか、悟るということは
どんな状況の中でも
そうしたいのちの働きに寄り添い見守ることを可能にするのだと思います。

自分自身が解脱しているからこそ、他者にも共感し寄り添えるのでしょう。

悲しんだり、絶望したり、怒ったり、落ち込んだりすることは
人間として当然だと思います。

ただ、自分を大切にしながら悲しんだりすることが難しいのでしょう。

悲しむ力を育む力につなげてゆく。

それがいのちの智慧なのではないかと思います。

メディアでも、今回のような未曾有の厳しい状況の中で
助け合いながら生きる術についての情報が流れ始めています。

スピリチュアルであるということは
日常的な言動の中に
本来のいのちの輝きを思い出してもらえるメッセージをこめて
実践して生きてゆけるということなのではないかと思います。

東日本大震災によせて

3月11日に未曾有の大震災が発生しました。

亡くなられた方々のみたまに深く哀悼の意を表します。
被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。
大切な人を亡くされ、あるいは行方不明のまま、
自らに降りかかった被災状況を生きてゆくのはどんなに苦しいことでしょう。

本日16日現在
原子力発電所の事故の進展状況いかんでは
今後の日本のあり方に甚大な影響が及ぼされるような重大な危機の中に
私たちは置かれています。

こうした状況下で、昨日高野山大学の研究室を訪問してくださった複雑性悲嘆研究者の方とのメールの遣り取りの中で生まれたメッセージがありました。

私の心の痛みと搾り出した希望です。

この日本の地に生きてきた私たちは幾度となく今回のような大きな災害で仲間を失いながらもいのちをつなげてきた。

そうした悲しみや不安や絶望を生き延びるためのいのちの智慧の一部は伝統的な祭りや冠婚葬祭などのさまざまな儀式や儀礼をはじめとする助け合いの中に埋め込まれているはずだ。そうした先人の智慧と勇気と思いやりの種を掘り起こし、今この時点における私たちの体験の中に蒔きなおしてゆくことが必要ではないかと思う。すでにそれを実践し始めている人びとも少なくない。

科学や宗教、政治や経済、あらゆる既成の枠を超えて、この辛すぎる体験を生きぬいて新しい日本を創造してゆくためのつながりやネットワークを再構築する機会に変容させてゆこう。

今こそ、この日本の自然を愛しながら喜びと悲しみの波を乗り越えていのちをつなげてきてくれた先人たちの思いにつながりなおし、私たちのことを思ってくださる海外の方々の気持ちにも支えられ、地球という星の日本を意識して生きる道を探し出したい。

それこそが、今回の震災で犠牲になった人びとの思いに報いる道にもつながることを祈りながら。

般若心経を歌います

私なりの般若心経の解釈を歌にしました。
学生が録画してくれたものをYouTubeにアップしましたので
ご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=mScRM5nY_4I

歌詞は次の通りです。

           智慧の響き

1. ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
   ハラサンギャーテー ボーディースヴァーハ   (***)

   行こう 行こう 悟りの岸へ 苦しみのない涅槃の彼方
   気づいてみれば 今ここで その悟りに生かされていたよ

2. ***

   心と身体 自然と私 出会いと別れ 流れ続けて
   浮かんで消える 私という 幻を見守り続けて

3. ***

   喜び悲しみ 期待と不安 自分を見るのが一番怖い
   ありのまま 見守れば そのままが悟りの姿

4. ***

   行こう 行こう 悟りの岸へ 苦しみのない涅槃の彼方
   気づいてみれば 今ここで その悟りに生かされていたよ

石楠花

高野山の石楠花も雨にぬれて美しい盛りを過ぎようとしています。

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金剛三昧院は、北条政子が夫源頼朝の菩提のために建立したお寺です。

国宝の多宝塔や
ご本尊として祀られている頼朝公の持仏であった愛染明王などが有名です。

GW中など、たくさんの人が美しく咲き誇る石楠花を見に来ます。

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まだ人気の少ない朝の早いうちに訪れて
もう枯れてしまったものからまだこれから咲く蕾など
この花たちの中には生老病死のすべてがあることを見つめながら
高野山の歴史を感じるひと時です。

霜柱瞑想

カチンコチンに凍った高野山の朝
庭にできた霜柱を手のひらに乗せて見ました

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苦しみや悲しみや痛みを瞑想するということは
こんな感じかなぁと思うのです

こうしてしばらく見つめていると
手のひらの霜柱の氷はだんだんと解けてゆきます
自分の手のぬくもりがカチカチに凍った土や氷に伝わっていくのがわかります

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痛いほど冷たいのですが
ちょっとそこを我慢して見つめます

というか、氷が解けて水になってゆくのが不思議で
その不思議に見入ってしまって
興味関心の最中で
痛いような冷たさが気にならないといった方がよいのかもしれません

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最後に手のひらには溶けた水と土が残ります

苦しみや痛みや悲しさは
瞑想の見守りの中で
智慧と思いやりに変わってゆくのです

残念! 入賞ならず・・・

11月27日、ゆうぽうとホールで行われた仏教音楽祭の公開演奏審査会で
「らくだの歌」を歌いました。

途中から手拍子が湧き起こって、
審査前にも会場からあたたかい声をかけていただいたので
もしかしたら・・・と期待していたのですが
残念ながら入賞はできませんでした。

私以外は、作詞も作曲も歌もプロばかりで
他の人のリハーサルに聞き惚れて、涙がほろリ・・・
こんなすばらしい人たちの中で歌える自分がとっても幸せに思えました。

楽屋体験も初めてで
いろんな人とお話できて勉強になりました。

本番前は、それぞれの集中の仕方があるようで
体育会系で身体を動かしながらステージ裏で準備している自分のことが
あらためてなるほど・・・と、よくわかり、これも学びになりました。

両親や親族も来てくれて
そして、夏休みに親子合宿をした育児の会の子どもたちも来てくれて
花束をもらったりして
本当に嬉しい体験でした。

本当は、あの子達と一緒にステージの上でトロフィーを貰いたい自分がいましたが
それはまたのお楽しみ、もしかしたら来世の夢ということにいたしましょう。

高野山の紅葉

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寒さがますにつれて、高野山の紅葉も深まってきました
光が差し込むと、色の鮮やかさが驚くほどに変化します

一瞬の光の芸術を求めて
三脚を構えている観光客も少なくありません。

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いつものお決まりの散歩道で
紅葉を探しながら
新しい高野山の横顔に出会いなおすことがあります。

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紅葉にのめりこんでシャッターを切って
いつもの自分に戻って道を歩きながら
人間は不思議な動物だなぁっておもいました

愛情のしるし

神様がくれたひと時

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 私は今、高野山に単身赴任の状態で、助産師をしている妻は山梨で自宅出産の仕事を手がけている。その妻が久しぶりに高野山に来てくれて、1週間ほど紅葉を楽しみながら、主婦業をしてくれた。

いつもは、大学から帰って一人で食事を作り、食べ、片付けるのが日課なのだが、帰ると食事が用意されているというのは、とても嬉しいものだ。

今年の夏、私が庭に植えたサツマイモが実をつけた。収穫しておいたもので、妻がスイートポテトを作ってくれた。私は紅茶を入れて、ふたりでティータイムをしたときのこと。彼女が、「あっ、見て!」と気づいたのが、この写真(ティカップの底にハートの形が見えます)。

これまで、なんども喧嘩したり仲直りしたり、波乱万丈で大変だったけど、こうしてホッとしたとき、神様はふたりに大切なことの徴を見せてくれたのかもしれない。

私の祭壇 その2

太陽のマスク
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このマスクは、私の結婚披露宴の記念に、バンクーバーに住む弟が贈ってくれたネイティブの作品だ。

以前トロントで瞑想を教えていた頃、心理療法とシャーマニズムの研究会に参加していて、ネイティブのメディスンマンを招いたワークショップに出たことがあった。そのとき、彼は私に向かって「われわれの道はたびたび重なるだろう」ということを言った。

その時には何を言われているのかわからなかったけれど、このマスクを見たとき、自分の中で何か腑に落ちるものがあった。

今は高野山でスピリチュアルケアを教えているのだが
ここの真言密教では大日如来を根本にすえている。

私もお大師さんを偲んで、野山を歩いて朝日や夕日を拝むことが少なくない。

私の場合には、自然を楽しむという意趣なのだが
朝日や夕日に合わせて
テーラワーダ仏教で学んだ孔雀経を唱えている自分がいたりして不思議だ。

ブッダは、悟りを開く前の前世で孔雀として生まれ
朝夕に太陽を礼拝しながら仏陀として悟りを開くための波羅蜜の行を積んでいたという。

以前は太陽崇拝だと見下していたようなときもあったが
いろんな旅の中で自然に朝日や夕日の美しさに手を合わせ
大自然の中で生かされているいのちの素晴らしさやありがたさに
素直に感謝できるようになった自分がいる。

弟がくれた太陽のマスク
これからも折に触れて、いろいろな思い出をつなげる役割を果たしてくれるのだろう。

宝物

徳島で自然体験学校TOECを運営する親友の伊勢達郎さんのところで
これまた親友の橋本久邦彦さんと3人で
「平和と元気につなげる環境教育セミナー:
   生まれてきてよかったと思えるために」
をやってきました。

私は2日目の瞑想を担当しました。

初日に橋本さんがリードしてくれたプレイバックシアターの流れを受けて

世代間伝達する魂の絡み合いを読み解くコンステレーションの視点

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ありのままの自然な呼吸を感じること

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いくつかの違ったアプローチから
瞑想を一緒に体験していただきました

人生を共に探求する仲間たち
それこそが私の宝物なんだなぁって
しみじみと嬉しく思った週末でした

私の祭壇 その1

聖母子との出会い

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もう十何年も前のことになるが、カナダで瞑想を教えていた頃のこと。宗教間交流会議で知り合ったロルフ神父に紹介されて、モントリオール郊外のオカにあるテラピスト修道院で瞑想したことがあった。

 ある朝、マリア像の前で祈っていると、こんなビジョンが浮かんできた。

「あなたにこの子を授けます。この子は、この世界を光で照らすでしょう。しかし、光で照らされたとき、多くの人々は、自分の影を見て恐れおののき、互いを指差しながらお互いを非難しはじめることでしょう。イエスが十字架の上で私たちに示されたのは、この事実なのです。私がこの子を授けるのは、あなたに新しい世界の子供たちを育んでほしいからです。それは、真実の光に照らされたとき、自分の影を見て、それを自分自身を知るため、お互いをよりよく知り合うために使うことのできるようにすることです。そのために、私はあなたにこの子を授けます」

 3日間の瞑想が終わって、迎えに来たロルフ神父に私はこのビジョンについて語った。彼は私をある修道学校に連れて行って、あるシスターに紹介してくれた。彼女は、私がそのビジョンを受け取ったときの気持ちや感情、その後の様子について質問した。いろんなことを話して部屋を辞そうとするとき、彼女は自分の机の上においてあるものから何でも好きなものをもっていきなさいと勧めてくれた。そのとき私が選んだのが、このタブローである。

 仏教徒でありながら仏像にあまり関心がもてない私だが、なぜかこの聖母子のタブローは好きになってしまって、それ以来ずっとどこに移る時にも持ち歩いている。息子が生まれたときには、ベビーベットに貼り付けておいた。その母子と離れてしまって、私はこの絵の背景に見える2本の手のように、彼らを遠くから見守り祈るしかない。

 今では、高野山のささやかな祭壇に置かれているこの絵、私が遠い昔キリスト教の修道をしていたのかもしれないこと、母子関係の大切さをスピリチュアリティの中に位置づけること、そして、ロルフやシスターのようにいろいろな仲間に支えられながら修行してきたのだということを思い出させてくれる。


来訪者

蟷螂

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 私はアウトドアが大好きで、大学の宿舎でも、よく庭に椅子とテーブルを出して食事をする。

今朝も暁と雲海を見て帰ってきた後、今年ためしに庭に植えたトマトとバジルで“トマト丼”を作って食べようとしていた。

 すると、いつもはテーブル代わりに使う腰掛に蟷螂がとまっていた。

腰掛は使わずにそっとしておいた。

丼を食べ終わっても、蟷螂はそこにいた。そこで思いついて丼を蟷螂の隣において取ったのがこの写真というわけだ。

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 蟷螂くん、こちらの気配を察して目をギョロッとこちらに向けはするが、逃げようとはしない。

私もだんだんと興味が出てきて、ぐるっと廻って、同じ視線からもう一枚パチリ。


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 正面から向かい合うと、少し恐いくらいに落ち着き払って見つめてくる。

そういえば、この蟷螂くん、夕べの晩にミントの林にいたのを見かけた覚えがある。

よく見ると、色はだいぶ灰色の部分が出てきていて、動きもちょっと鈍い。

 雨が続いた後で、あったかい陽だまりで身体を休めて、もしかしたら今日が最後の日になるのかもしれないなぁ・・・などと想像する。

すると、「これまでがんばって生きてきたんだよね。ご苦労さん。気がすむまでゆっくりしていってね・・・」などと声をかけている自分がいる。職業根性か・・・

 食器を洗って一休みしてから、そっとのぞいてみると、蟷螂くんはもういなかった。

人生の始まりの支援

「仏教と乳幼児期」

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 8月1日から5日まで、横浜パシフィコで世界乳幼児精神保健学会の世界大会に参加してきました。3日の午後、私は、オーストラリアの音楽療法士ステファン・マーロック、イギリスの臨床心理士マリア・ポッジと3人で「仏教と乳幼児期(Buddhism and Infancy)」というワークショップを行いました。写真は右側からコーイン・トレバーサン(ステファンの師匠で母子コミュニケーション研究の第一人者)、ステファン、私、マリアです。

 先ず最初に私がヴィパッサナーを中心として仏教瞑想を概説して、瞑想にはウィニコットの言う「抱っこ」的な環境を創り出す効果があることを説明しました。次にステファンが、喃語による赤ちゃんとお母さんのコミュニケーションにはすでにリズム、メロディーそして物語性という3要素による音楽的なコミュニケーションが成立しており、この土台の上に意味を持つ言葉によるコミュニケーションが為されるようになること、仏教の縁起思想はこうした関係性の上に成り立つ人間理解に有用なことを話しました。そして最後にマリアが、実際の母子カウンセリングの臨床現場において仏教の瞑想的な姿勢がどのような効果をもたらすかについて体験を語りました。

 最後には活発な質疑応答が為され、ワークショップは予想以上に好評で、事務局長からもこのチームで継続的に発表をしてゆくようにという嬉しい応援を頂きました。仏教瞑想はマインドフルネスという名前で西洋の心理療法をはじめとする多くの臨床現場にかかわる人たちに実践されるようになって来ています。日本仏教の再生には、こうした実践型の瞑想が逆輸入されることが必要なのかもしれません。

 スピリチュアルケアは、人生の最後の支援だけではなく、チャイルドケアの中で赤ちゃんとお母さんがよりよい時間を過ごせるように応援することも大切な使命としているのです。命をつなぐ世代間伝達の場で、悪循環を断ち切り、よりよい喜びと思いやりの循環を創造するお手伝いです。

 今回の大会は、こうした人生最初期のスピリチュアルケアを考えてゆくために、赤ちゃんとお母さんの間に起こっていることに関して科学的研究が相当に熟してきたことを実感できる貴重な機会でした。

雲海

息づく色彩

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高野山から天河神社に向かう途中、野迫川村あたりに雲海の名所がある。朝焼けの色彩変化は息を呑むほどで、足下に雲が湧き上がってくるのはゾクッとするほどに畏怖の念を起こさせる。

 弘法大師空海は、役の行者の弟子たちに導かれながら吉野から大峰山脈、天河、そして高野のあたりを山林徒走して修行に励んでいたに違いない。空海が高野山を修禅の地として選んだ理由の一つは、近くにこのような色彩体験ができる場所があったこともあるのだろう。

 自然のパノラマの中でこうして刻一刻と変化する色彩体験をしていると、大自然の美しさの中で小さな自分を忘れて生かされているいのちへの感動と感謝が新たになる。特に現代では、こうした素晴らしい自然体験を楽しめることは貴重なことであり、スピリチュアルといわれる領域に触れる大切な手がかりになるのではないかと思う。

修行者

東京への行き帰りに使う新大阪駅近くのホテルがあります。先日も大学での講義を終えてから翌日の東京での共同研究に間に合うようにそのホテルに一泊しました。翌朝のことです。朝食をとり、チェックアウトを済ませて駅に向かうシャトルバスに乗り込み、窓から何気なく外を見ていたとき、玄関前の灰皿を掃除している人の姿が目に入りました。年のころは60台半ば、おそらく退職後の第二の人生で、アルバイトとしてホテルで働いているのかもしれません。膝をついてテキパキと働いているその姿に、私は禅寺で作務をしている修行僧の姿が重なってしまいました。「いろんなところに修行僧はいるんだなぁ・・」、そう思うとなんとなく胸が熱くなりました。いまどき、お寺よりも、こうして巷間で人知れず修行を積み重ねている人が少なくないのだと思います。インドの四住期に従えば林住期や遊行期をどのように生きるかは、現代の日本社会が抱える高齢期の問題を左右する大きなテーマなのかもしれません。どのように老いてゆくか、老いてゆく人に寄り添うか、どのように死んでゆくか、その死を看取ってゆくか、修行は時と場所を選ばないのだと思いました。

室戸岬

最近の大学教員は高校訪問ということをします。少子化で学生数が減って来たために、ひとりでも多くの学生に来てもらうために高校に出向いて大学や学課の説明をするのです。スピリチュアルケアという新しい学課の説明のために、私も徳島県の南側の高校数校を巡ることになりました。
 最後の高校が高知県との県境であったので、金曜日の訪問の仕事を終えた後の週末を私は室戸岬を訪れてみることにしました。室戸岬はお大師さんが求聞持法の修行をして、明けの明星を見てその光が自分の中に飛び込んでくるような体験をして悟りを得たとされるところです。
 室戸岬は、岬の西側では夕日が見られ、東側では朝日が見られ、少しの距離を歩くだけで美しい朝日と夕日がみられる場所です。その晩は宵の口から大雨が降ったのですが、雨が止んで夜中にさっと星空が開けました。私は1時過ぎから宿を抜け出して、まずは御厨人窟で蝋燭をともして読経してから、夜が白むまで星空を眺めながら海岸を歩き、ところどころで瞑想しました。
 水平線の雲海から朝日がでるのを海岸で見ると、すぐに洞窟の中に入って朝日が差し込んでくる様子を確かめました。昇ったばかりの朝日が洞窟に差し込んでくる様子は、それは美しい光景です。私は、差し込んでくる朝日の中に立って、自分の影が洞窟の奥面に映るのを見つめました。プラトンの、洞窟のイドラの話を思い出しました。何年か前のこと、伊豆の竜宮堂という洞窟でも冬至の日に同じような光の体験をしました。その時には洞窟から泳いで外に出て朝日を浴びました。
 空海は、行当不動の洞窟で夕日を眺め瞑想し、夜中に歩いて移動して御厨人堂で朝を向かえ朝日の体験に瞑想を深めたのではないかと思われます。「明星来影す」という神秘体験は、そうした修行を重ねた末に起こったのではないかと思われました。
 若き日に役の行者の弟子たちと共に大峰の山々を歩き、室戸の岬を歩きながら宗教的神秘体験を深めた空海は、やがて大峰と室戸の中間にある高原湿地の高野山に修禅の道場を開きます。
 高校訪問という仕事に導かれてお大師さんの足跡をしのんだ週末でした。

スピリチュアルケアとしての能

 先日、天川神社で能の奉納上演を見ました。鼓や地歌のかもし出す雰囲気は、見ている側を含めて全体に一種のトランス状態を作り出すのだなぁという感じを受けました。全体をファシリテートするように鼓を打つ者の目は、宙を見てどこにも焦点を合わせていないようです。よく見てみると、舞台にいる人たちはみんなそんな眼をしています。つまり、この世を見ているのではないのでしょう。
 こうした変性意識状態のような空間で、さまざまな悲しみや恨みや苦しみの物語が語られてゆきます。それは、まさにグリーフワーク(悲嘆の仕事)そのものです。すべてのものを透明にして通り抜けさせてしまうようなトランスの器の中でゆっくりじっくりと表現された悲しみや恨みや痛みは、スピリチュアルな次元でしっかりと受けとめられて、許しや鎮魂につながってゆくのではないかと感じました。
 能とは、乱世の共同体の中でそんなスピリチュアルなケアをすべく企画された芸能ではないか、世阿弥の言う花には、そんなスピリチュアルケアを実現させてしまう力が秘められているのかもしれないと思いました。

瞑想による解毒 その5

一体感(Ekaggata)

 瞑想の集中力によって達成される最高の至高体験がこの一体感です。忘我恍惚と呼ばれたりするものですが、日常生活でも何かに没頭して時間感覚や自己感覚を忘れてしまうような体験をすることがあります。好きなことに熱中しているとき、人は自然にこの一体感を体験し味わっているものなのです。
 瞑想で特別な点は、意識的に選んだ呼吸、マントラあるいは何かの宗教的なイメージなどに意識的に注意を集中させてゆく訓練の過程で、この一体感に達することです。したがって、瞑想という意識的なトレーニングによって達成された一体感は、それだけ純度の高いものになります。
 一体感は、自我境界を緩めるために、自分と外界との境目がなくなるような体験をします。あたたかなつながりの感覚です。この感覚が、貪欲を解毒し中和します。つまり、何かが欲しくてしょうがないときというのは、自分とその対象とが決定的に分離していると感じているからなのです。一体感の中では、その分離感が和らぎ忘れられてしまうので、知らないうちに、その対象と切り離されてしまっていてその対象を自分のものにしたくて仕方ない渇望が一時的に消滅します。
 この一体感について、フロイトとロマン・ロランの間に興味深い書簡のやりとりが残っています。ロランが、宗教的な神秘体験を「大洋的感覚(Oceanic feeling)」と呼んだのに対して、フロイトが、それは母子一体のときの感覚に退行しているに過ぎないのではないかと批判しています。双方の言い分にそれなりの論点があります。ただし、仏教瞑想は、この一体感を究極的な神秘的宗教体験とはしていませんので、ロランの言い分も、フロイトの言い分もしっかりと汲み取った上で、瞑想の修行を続けてゆくことが大切だと思います。
 私たちの自我や自己概念は身体あるいは身体感覚に深く結びついていますので、瞑想的な一体感によってその結びつきが緩められると、ロランが指摘するようなさまざまな神秘的宗教体験が起こります。それは私たちの時間や空間に対する感覚が、自分の身体における体験に深く根ざしたものであるために、一体感によって身体に束縛されない様式の体験に触れると、永遠や無限に触れるような、そんな神秘的な体験として受けとめられてしまうものなのです。
 ウィニコットは、自我が現れてくるプロセスを魂が身体に住み込む過程として見つめ、そのために必要な環境を「ほどよい母親的環境(Good enough mothering envioronment)」と呼びました。赤ちゃんはひとりでは生きられません。母親的存在による世話の中で始めて成長し自我を育むことができるのです。ですから、フロイトの大洋的感覚は母子一体状態への退行であるという言い分にも頷けるところがあるのです。つまり、身体に束縛されない様式の体験とは、私たち人間が、まだ自我を獲得する以前に、母親的存在に絶対的に依存しながら成長していた頃に体験していたものと似ているところがあるモノなのです。
 ここで大切になるのは、この一体感をどのように使いこなすかという点です。この一体感は、いろいろな痛みや苦しみを一時的に忘れさせてくれます。貪欲による苦しさもそのひとつです。しかし、それは麻薬的な効果に類似する依存性をもたらすこともあります。ですから、このような一体感をうまく利用して人を洗脳したり、搾取したり、虐待していながらそのことに気づかないようにしてしまうシステムを作り上げてしまうのに利用されることがあるのです。伝統的な宗教教団やカルトの中で繰り返されるさまざまな事件の背後には、この一体感の問題が隠れています。
 一方、瞑想によって得られる一体感は、その力を利用して神通力と呼ばれる超能力的な力として利用される莫大なエネルギーを引き出すことを可能にするものでもあります。それは、一体感を出た後の瞬間の心の用い方によります。 
 ブッダの瞑想のユニークなところは、この一体感を上手に利用して、一体感を出た直後に、真実を洞察する智慧を導く仕方を明確に教えてくれているところです。その智慧をヴィパッサナー(Vipassana)と呼びます。ヴィパッサナーとは、ものごとのありのままを洞察する智慧です。このヴィパッサナーの智慧によって、一体感によって一時的に解毒されていた貪欲などの煩悩は、その根元から根本的に超越されることになります。

瞑想による解毒 その4

リラックス(Sukha)

瞑想で体験する喜びには、興奮性や刺激性があります。長い時間浸っていると、疲れてきます。その興奮や刺激が鎮まると、やがて安らかにリラックスした状態が訪れます。喜びをありのままに自覚しているうちに、自然に移行してゆくものです。ありのままを見つめていると、心は自然により安らかで楽な方向に進んでゆくようです。リラックスすることによって、後悔や心の浮つきが収まってきます。後悔は、過去の自分に対する微細な怒りが内向したもの。心の浮つきは、微細な興奮による落ち着きのなさで、時に不安の反転である場合もあります。喜びが強いエネルギーで強い怒りを中和してくれるのに対して、リラックスは和らいだエネルギーで微細なイライラや落ち着きのなさを中和してくれます。
 後悔は、集中力の妨げとなるので、深い瞑想に入るためには、誰かにその気持ちを聞いてもらうこと、すなわち懺悔告白をすることもよいでしょう。批判される心配がなく安心できる人に打ち明けて受けとめてもらうと、ホッとするものです。日本仏教では、懺悔文というものをひとりで読みますが、実際の瞑想修行では、師匠などに相談して聞いてもらうこともあります。以前の宗教が持っていた懺悔や告白の伝統は、現在では心理療法などの分野に受け継がれているようです。瞑想では、自分の心身を見つめてゆくことで、自然に自分を許して、力が抜けて、リラックスしてゆく流れが生まれます。これが瞑想による自己受容です。

瞑想による解毒 その3

喜び(Piti)

 瞑想を始めて、呼吸やマントラなどの対象に注意を向け、しっかりと把握して観察し、集中してゆくと、言葉を忘れ、我を忘れてしまうことがあります。ただ呼吸に触れている、マントラとひとつになったとき、ふと体が軽くなったように感じたり、明るくなったように感じたり、鳥肌が立つようにゾクッとしたり、お腹の辺りに気が充満してきて背筋を上っていったり、波のようなエネルギーが押し寄せてくるように感じたりすることがあります。これらはみな喜びの働きです。喜びは、怒りや攻撃性を溶かしてくれます。破壊性が内向すると自己嫌悪になります。喜びは、そのエネルギーで自己嫌悪や嫉妬なども中和して忘れさせてくれます。この喜びは、もともといのちに備わっているものなのですが、否定的な思考によって曇らされていました。瞑想によって、しっかりと対象に注意を向け、ありのままに見つめることで否定的な思考の勢力が弱められます。また、我を忘れるところまで集中すると、言語的な働きが静まってくるので、喜びが浮かび上がって耀きだすのです。

瞑想による解毒 その2

観察する思考(Vicara)

 禅定を支える第二の要素は観察する思考力です。注意を向ける思考が前半部であるのに対して、意識が対象をつかんだ後で対象について詳しく観察する働きです。花を見つけて着地したミツバチが、花をよく見てどこに管を入れれば蜜がよく吸えるかを見極めるようなものです。この観察する思考によって、疑いが解けます。「百聞は一見にしかず」と言いますが、本当かどうか疑念を持っていることも、自分の目で詳しく見て確かめるならば真実を確信することができます。
 注意を向ける思考と観察する思考は一組にして扱われることがあります。つまり、瞑想を始めるときには、マントラであれ、イメージであれ、あるいは呼吸であれ、何かの対象に心を向けて、その対象をよく把握して観察し、熟考する必要があるのです。一つのことに意識を集中することを凝念といったり、熟慮するといいますが、瞑想のスタートにおいては、こうした思考力をよく働かせて対象を明確に把握して、疑いが消え確信できるまで考え抜くことが大切なのです。
 それは概念的な思考ではなく、その対象をストレートにとらえて直感してゆく思考です。こうして瞑想を支える純粋な注意力と直感的観察力によって、眠気や不活発生と疑いとが消えてゆき、スッキリ溌剌として、自己信頼のもてる心が育ちます。

瞑想による解毒 その1

注意を向ける思考力(vitakka)

禅定とは、パーリ語(古代インドの口語)でJhanaの音訳です。もともと、焼き尽くすとか、熟慮するという意味があります。この禅定を支える心の働きに、注意を向ける思考力、観察する思考力、喜び、リラックス、一体感の5つがあります。仏教の瞑想心理学では、これらの5つの働きは、それぞれ、眠気や不活発性、疑い、怒り、後悔や落ち着かなさ、貪欲という心を曇らせる5つの作用を中和してくれることを教えています。
 今回は、まず最初の注意を向ける思考力(vitakka)について説明しましょう。瞑想するとき、まず対象に意識を向ける必要があります。マントラであれ、イメージであれ、呼吸であれ、その対象のことに心を向け、集中します。この意識を向ける働きを、思考作用の前半部分としてとらえます。すなわち、仏教瞑想では、思考を、対象に意識を向ける働きと、対象を詳しく観察する働きの2つに分けるのです。
 解説書では、それはミツバチが花を見つけてそこに着地して、蜜を吸うことにたとえられています。花を見つけて着地するまでが注意を向ける思考の働きに当たります。花に着地してから管を伸ばして蜜を吸うのが詳しく観察する思考です。ミツバチが、花に着地するまでは羽音が大きいけれど、蜜を吸いだすと動きが静かになります。つまり、心の働きとして、何かの対象に向かってゆく働きは大きなエネルギーを必要とするので、そのエネルギーに活性化されて、眠気や不活発性が中和され、抑うつ的な気分も晴れてくるわけです。これが、瞑想的な集中状態に入ることの第一のご利益です。

ウツの風景

年末年始は、ちょっとウツモードで流れてゆきました
昨年は新しい学科の立ち上げに関連して
思いもかけないような荒波をかぶったり
思いもかけないところから助け舟が出たり
そんなこんなでだいぶ疲れていたのだと思います

そういえば、還俗して日本に帰ってきた8年前の年末年始にも
それから、子どもと離れて暮らすことになった3年前の年末年始にも
似たようなウツっぽい時間が流れたことがありました
カルチャーショックや離別の悲しみによるものでした
寝込んでしまうくらい辛かったそのときに比べれば、だいぶ軽かったのですが
それでもやはり、ウツはウツのもつ独特な季節の雰囲気があります

いろんなことを思い出して
あんなことをしてしまった、こうできたらよかったのに、こうなったらどうしよう・・・
そんな思いが頭に浮かんできては巡ってゆくのを見つめながら
思いを思いとして見つめて
自分を責める気持ちや不安を確認しながら
たくさん涙を流して
自分の気持ちを正直に話して
ゆっくりと、ゆっくりと、元気が戻ってくるのを待っていました

後悔、懺悔、反省、ふりかえり
そんなグラデーションを体験していたような気もします

ウツは
これまでの自分を手放して
新しい自分が生まれるための準備の季節なのかもしれません

5日になって、やっとスキーに出かけることができたとき
自然の雄大さに抱かれて
富士山や、北岳や、八ヶ岳など
こんな素晴らしい山々にずっと見守られて育ってきたのだなぁと思い
北アルプスや御嶽山などを眺めながら
日本の臍みたいなところで滑っているんだなぁと思ったら
なんだかまた涙がこみ上げてきました
山も空も海も、自然はいいなぁ・・・と

レストハウスで子どもたちや若い家族たちの様子を眺めたり話したりしながら
新しい世代を育てるためのスピリチュアルケアを作ろう
そんな思いが浮かんできて、また涙
この仕事は、やっぱり自分のためでもあるのだと思います

そして大学に戻ってみると
変革の嵐の荒波は相変わらずですが
きちんと逃げずに向き合ってきた手ごたえはそれなりに生まれてきていて
久しぶりにギターを手にとってみると
かすれて出なかった声も出るようになってきて
ウツの風景を見つめながらその季節を大切に過ごせてよかったなぁと
しみじみと思っている今日この頃です

3種類の智慧

仏教瞑想では、智慧を3つのタイプに分けてとらえます

ひとつは、聞くことによる智慧(Suta-maya Nyana)
 物事のあり方や、心の持ち方、修行の進め方など
他者から聞いたり教えてもらって得た智慧のことです
情報化社会に生きる私たちは、インターネットや雑誌や書籍、テレビやラジオや講演会
イベントやワークショップなどを通して多くの情報を得ることができます

二つ目は、考えることによる智慧(Cinta-maya Nyana)
 得た情報について、自分の力で整理し、想像力を駆使して考え
さまざまな組み合わせの可能性を試し理論化しながら獲得してゆく
思考力による智慧です

三つ目は、修行による智慧(Bhavana-maya Nyana)
 実際に瞑想修行をして、あるいは日常の生活の中で実践してみて
体験的に獲得してゆく智慧のことです
あらゆることが無常であり無我であると頭の中ではわかっていても
日常生活の中で思い通りにならない現実に出会ったとき
そのときに湧き上がってくる不満や、不安や、イライラや、怒りなどをどのように見つめ
味わい、それらの感情的なエネルギーとどのように付き合い、使い
手放して行くかを通して
実際にものごとの無常や無我を体験的に理解し納得してゆくことができます
 ものごとが思い通りにいかなからこそ、助かることもあるのです
思い通りにいったひとときの有頂天のために、足元をすくわれることもあります
 思い通りにいっているときにも、思い通りに進まないときにも
無常であること無我であることを思い出して、自分の感情を大切に受けとめつつ
心を開いて、謙虚に、あきらめずに、試行錯誤を進めてゆける開かれた生き方の中に
体験的な智慧が獲得され、育まれてゆきます

 仏教瞑想で言う3つの智慧は
座禅などの特別な枠の中での瞑想修行に限られたものではなく
日常生活における行住坐臥のすべての中に生きてゆかれるべきものなのです

(パーリ経典のなかでブッダが説く無我とは
我があるかないかについての議論ではありません
私たちの存在が我の思い通りになるものか否かについての議論です
無我とは
我の思い通りにならない生老病死の現実的な苦しみを理解し、受容して
思い通りにならない現実を苦しみにしてしまう原因である衝動的な渇愛を見つめ
味わい尽くし
手放すことのできる智慧によって
思い通りにならない現実の中で
試行錯誤に心を開いて自在に生きてゆくしなやかさを開いてゆくことなのです
そのような心の静けさを涅槃と呼びます)


修行の3つのステップ

仏教では、戒・定・慧という3つのステップを踏んで
修行を進めます
これを3学とも呼びます

戒(Sila)とは、もともと生活習慣を意味する言葉です
自分の生活習慣を自覚し、
社会と調和して後悔が少なくなるような生活規範を身につけることを指します

一般的には
1.いのちを大切にすること
2.人のものを盗らないこと
3.性的関係において相手を尊重し大切にすること
4.嘘をつかないこと
5.依存や嗜癖のもとになる酒や麻薬などから離れること
がガイドラインとなります

戒の根本的意義は
心の安定を妨げる後悔を少なくする生活習慣を身につけることであり
これは自我の力を育む土台になります

定(Samadhi)とは、心の集中力や安定力を養うことです
瞑想で、ひとつの対象に繰り返し注意を向ける訓練をすることは
心を集中させ、安定させるための定の基本です
三昧とも音写されて呼ばれます

喜びや、リラックスや、忘我恍惚的な一体感を与えます
何かに没頭しているときには自然に集中しています
周囲のことが気にならず、時間を忘れます
瞑想では、呼吸やマントラなど、何かひとつの対象に
繰り返し注意を向け、集中力を養います

三昧によって集中し安定した心には
神通力と呼ばれる超能力的な働きを生み出す作用もありますが
これは直接悟りにはつながりません

悟りは、定によって得られた心の安定した集中力の土台の上に育まれた
智慧によってのみ得られます

慧(Pannya)とは、智慧の働き、洞察力のことです
真実をありのままに知ることです
般若と音写されて呼ばれているものです

仏教では
無常: ものごとは常に移り変わっていること
無我: 移り変わるものごとを自我の思い通りには支配できないこと
苦:   思い通りにならない現実は、自我にとって苦しみに映ること
の3つを究極的な真実であるとします

この3つの真実をありのままに洞察したとき
自我は囚われから解放され
しなやかや強さを獲得して
無常であり、無我であり、苦でである現象世界の中で
苦しみを受容し、乗り越えて
安らかな心で
ひとつひとつ目の前の現実に向かい合い
試行錯誤を続けながら
自在に生きてゆくことができるようになります

それが仏教で説かれる苦しみからの解脱であり、自由であり
本当の自分に出会って生きる道なのです

仏教瞑想はそのための心身の総合的なトレーニングツールなのです

スピリチュアルケアとは

スピリチュアルケアが注目されるようになったのは
ホスピス運動の流れの中のことでした

末期がんなどの身体的な痛みが緩和されたときに
それゆえに浮上してくる存在の深い苦しみがあります
それらは、なんで生まれてきたのか?
死んだらどこに行くのか?
死に対する不安
罪悪感
などの形で表現されてくるものです

自然に死を迎えるような場合でも
死の2週間くらい前に、身の置き所のないだるさやイライラを体験することもあります

それらの苦しみはスピリチュアルペインと呼ばれ
この存在の根幹に関わる深い痛みに寄り添いながら
本人がより安心して最後のときを迎えることができるようにお世話する支援を
スピリチュアルケアと呼ぶようになりました

大切な人を亡くした遺族の悲しみに寄り添うのも大切なスピリチュアルケアの一部です

そもそも、このようなケアは宗教者がになっていた部分があったのですが
既成の宗教が持つ超越的あるいは権威的な姿勢は
えてして、本人の本当の気持ちをないがしろにしてしまうことが少なくありません

そこで、宗教者であるかないかを問わず
どのような宗教を信じる人に対しても
その人のそのときの本当の気持ちを大切にして寄り添うことができるような
ケアのあり方を実現することができるように
特定の宗教にこだわらないスピリチュアルケアが大切だということがわかってきました

こうして、死の看取りや喪失の痛みに寄り添っていると
スピリチュアルケアの現場ではいくつかの大切なテーマがあることが感じ取られます
それらは
1.人生の意味を見出すこと
2.自分を許し、他人を許すこと
3.お世話になった人に「ありがとう」を言うこと
4.大切な人に「大好きだよ」を伝えること
5.さよならを告げること
です

考えてみると、これらのテーマは人生の最後だけではなく
子供を育てるときにも、さらには人生全体で重要なテーマであることに気がつきます
自分の死に直面することも
人の死を看取ることも
子どもを産んだり育てたりすることも
私たちはそれまでに体験したことのない状況に向かい合い
自己存在を根底から揺るがされるような不安を経験します

スピリチュアルケアは
そうした人生の危機の渦中にある人に対して
共感と傾聴をベースにして寄り添いながら
ケアされる人もケアする人も
ともにいのちの光を耀かせることができるような流れを促進するいのちの営みです

それは
身体のケアにも
心のケアにも
社会的なケアにも
子育てにも
保育にも
教育にも
あるいは職場のなかでも
あらゆる対人援助の中で
ケアする人の深い思いやりがその人の姿勢や態度から漏れ出てくるものです

スキルではなく、そのスキルをどのように使うかというメタスキル的なところがあります

これまでの知識や体験ではどう対応してよいかわからないような状況において
どのように試行錯誤できるかの姿勢から漏れ出すものです

そのようなスピリチュアルケアがあると
人生の危機は成長の機会へと変容します

でも、スピリチュアルケアワーカーは
成長だとか変容という概念にこだわることなく
目の前の出来事に誠実に対応してゆくだけです

今ここの出来事に心を開くこと
そこで、スピリチュアルケアと瞑想が出会います

生と死を見つめる

瞑想は、山奥の洞窟や寺院などにこもらなければできないというものではない
毎日の生活を丁寧に生きることが大切だ

私は、日本の曹洞宗とビルマのテーラワーダ仏教で十数年間の出家修行を体験した後で
還俗して一般生活の中で瞑想のエッセンスを応用しようと試みている

独身で瞑想や経典の研究に集中できた期間は確かに貴重であり
私に大きな贈り物を与えてくれた

しかし、一般的な生活に戻って
買い物や子育てや仕事をしてゆく中で
隔離された道場の中では体験できない瞑想の醍醐味を味わえているように思う

それは、さまざまなレベルでの人生の生と死とを見届けてゆく作業だ
そうして人生の生老病死をありのままに見つめてゆくと
何かを失って悲しむ力は、新しく出会ういのちをいとおしみはぐくむ力を与えてくれるように思う

そんな今日この頃である

瞑想とは

瞑想とは、ありのままに見つめる技
心と身体を総動員して
自分の中にあるもの
他人の中にあるもの
そして、自分と他人の間にあるもの
すべてをありのままに見つめ感じててゆく

ありのままに見つめる心は、自然に思いやりの心を開いてくれる

スピリチュアルケアとは、人生の危機にある人が
それを成長の機会として生き抜くことができるように
寄り添って支えること

与えることと受け取ることが循環して
お互いにいのちの光が耀きだす
そんな生き方ができるように、瞑想は人生を導いてくれる

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