井上ウィマラのともにいのちを耀かせる瞑想とスピリチュアルケア

仏教瞑想 カテゴリーの一覧

霜柱瞑想

カチンコチンに凍った高野山の朝
庭にできた霜柱を手のひらに乗せて見ました

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苦しみや悲しみや痛みを瞑想するということは
こんな感じかなぁと思うのです

こうしてしばらく見つめていると
手のひらの霜柱の氷はだんだんと解けてゆきます
自分の手のぬくもりがカチカチに凍った土や氷に伝わっていくのがわかります

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痛いほど冷たいのですが
ちょっとそこを我慢して見つめます

というか、氷が解けて水になってゆくのが不思議で
その不思議に見入ってしまって
興味関心の最中で
痛いような冷たさが気にならないといった方がよいのかもしれません

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最後に手のひらには溶けた水と土が残ります

苦しみや痛みや悲しさは
瞑想の見守りの中で
智慧と思いやりに変わってゆくのです

瞑想による解毒 その5

一体感(Ekaggata)

 瞑想の集中力によって達成される最高の至高体験がこの一体感です。忘我恍惚と呼ばれたりするものですが、日常生活でも何かに没頭して時間感覚や自己感覚を忘れてしまうような体験をすることがあります。好きなことに熱中しているとき、人は自然にこの一体感を体験し味わっているものなのです。
 瞑想で特別な点は、意識的に選んだ呼吸、マントラあるいは何かの宗教的なイメージなどに意識的に注意を集中させてゆく訓練の過程で、この一体感に達することです。したがって、瞑想という意識的なトレーニングによって達成された一体感は、それだけ純度の高いものになります。
 一体感は、自我境界を緩めるために、自分と外界との境目がなくなるような体験をします。あたたかなつながりの感覚です。この感覚が、貪欲を解毒し中和します。つまり、何かが欲しくてしょうがないときというのは、自分とその対象とが決定的に分離していると感じているからなのです。一体感の中では、その分離感が和らぎ忘れられてしまうので、知らないうちに、その対象と切り離されてしまっていてその対象を自分のものにしたくて仕方ない渇望が一時的に消滅します。
 この一体感について、フロイトとロマン・ロランの間に興味深い書簡のやりとりが残っています。ロランが、宗教的な神秘体験を「大洋的感覚(Oceanic feeling)」と呼んだのに対して、フロイトが、それは母子一体のときの感覚に退行しているに過ぎないのではないかと批判しています。双方の言い分にそれなりの論点があります。ただし、仏教瞑想は、この一体感を究極的な神秘的宗教体験とはしていませんので、ロランの言い分も、フロイトの言い分もしっかりと汲み取った上で、瞑想の修行を続けてゆくことが大切だと思います。
 私たちの自我や自己概念は身体あるいは身体感覚に深く結びついていますので、瞑想的な一体感によってその結びつきが緩められると、ロランが指摘するようなさまざまな神秘的宗教体験が起こります。それは私たちの時間や空間に対する感覚が、自分の身体における体験に深く根ざしたものであるために、一体感によって身体に束縛されない様式の体験に触れると、永遠や無限に触れるような、そんな神秘的な体験として受けとめられてしまうものなのです。
 ウィニコットは、自我が現れてくるプロセスを魂が身体に住み込む過程として見つめ、そのために必要な環境を「ほどよい母親的環境(Good enough mothering envioronment)」と呼びました。赤ちゃんはひとりでは生きられません。母親的存在による世話の中で始めて成長し自我を育むことができるのです。ですから、フロイトの大洋的感覚は母子一体状態への退行であるという言い分にも頷けるところがあるのです。つまり、身体に束縛されない様式の体験とは、私たち人間が、まだ自我を獲得する以前に、母親的存在に絶対的に依存しながら成長していた頃に体験していたものと似ているところがあるモノなのです。
 ここで大切になるのは、この一体感をどのように使いこなすかという点です。この一体感は、いろいろな痛みや苦しみを一時的に忘れさせてくれます。貪欲による苦しさもそのひとつです。しかし、それは麻薬的な効果に類似する依存性をもたらすこともあります。ですから、このような一体感をうまく利用して人を洗脳したり、搾取したり、虐待していながらそのことに気づかないようにしてしまうシステムを作り上げてしまうのに利用されることがあるのです。伝統的な宗教教団やカルトの中で繰り返されるさまざまな事件の背後には、この一体感の問題が隠れています。
 一方、瞑想によって得られる一体感は、その力を利用して神通力と呼ばれる超能力的な力として利用される莫大なエネルギーを引き出すことを可能にするものでもあります。それは、一体感を出た後の瞬間の心の用い方によります。 
 ブッダの瞑想のユニークなところは、この一体感を上手に利用して、一体感を出た直後に、真実を洞察する智慧を導く仕方を明確に教えてくれているところです。その智慧をヴィパッサナー(Vipassana)と呼びます。ヴィパッサナーとは、ものごとのありのままを洞察する智慧です。このヴィパッサナーの智慧によって、一体感によって一時的に解毒されていた貪欲などの煩悩は、その根元から根本的に超越されることになります。

瞑想による解毒 その4

リラックス(Sukha)

瞑想で体験する喜びには、興奮性や刺激性があります。長い時間浸っていると、疲れてきます。その興奮や刺激が鎮まると、やがて安らかにリラックスした状態が訪れます。喜びをありのままに自覚しているうちに、自然に移行してゆくものです。ありのままを見つめていると、心は自然により安らかで楽な方向に進んでゆくようです。リラックスすることによって、後悔や心の浮つきが収まってきます。後悔は、過去の自分に対する微細な怒りが内向したもの。心の浮つきは、微細な興奮による落ち着きのなさで、時に不安の反転である場合もあります。喜びが強いエネルギーで強い怒りを中和してくれるのに対して、リラックスは和らいだエネルギーで微細なイライラや落ち着きのなさを中和してくれます。
 後悔は、集中力の妨げとなるので、深い瞑想に入るためには、誰かにその気持ちを聞いてもらうこと、すなわち懺悔告白をすることもよいでしょう。批判される心配がなく安心できる人に打ち明けて受けとめてもらうと、ホッとするものです。日本仏教では、懺悔文というものをひとりで読みますが、実際の瞑想修行では、師匠などに相談して聞いてもらうこともあります。以前の宗教が持っていた懺悔や告白の伝統は、現在では心理療法などの分野に受け継がれているようです。瞑想では、自分の心身を見つめてゆくことで、自然に自分を許して、力が抜けて、リラックスしてゆく流れが生まれます。これが瞑想による自己受容です。

瞑想による解毒 その3

喜び(Piti)

 瞑想を始めて、呼吸やマントラなどの対象に注意を向け、しっかりと把握して観察し、集中してゆくと、言葉を忘れ、我を忘れてしまうことがあります。ただ呼吸に触れている、マントラとひとつになったとき、ふと体が軽くなったように感じたり、明るくなったように感じたり、鳥肌が立つようにゾクッとしたり、お腹の辺りに気が充満してきて背筋を上っていったり、波のようなエネルギーが押し寄せてくるように感じたりすることがあります。これらはみな喜びの働きです。喜びは、怒りや攻撃性を溶かしてくれます。破壊性が内向すると自己嫌悪になります。喜びは、そのエネルギーで自己嫌悪や嫉妬なども中和して忘れさせてくれます。この喜びは、もともといのちに備わっているものなのですが、否定的な思考によって曇らされていました。瞑想によって、しっかりと対象に注意を向け、ありのままに見つめることで否定的な思考の勢力が弱められます。また、我を忘れるところまで集中すると、言語的な働きが静まってくるので、喜びが浮かび上がって耀きだすのです。

瞑想による解毒 その2

観察する思考(Vicara)

 禅定を支える第二の要素は観察する思考力です。注意を向ける思考が前半部であるのに対して、意識が対象をつかんだ後で対象について詳しく観察する働きです。花を見つけて着地したミツバチが、花をよく見てどこに管を入れれば蜜がよく吸えるかを見極めるようなものです。この観察する思考によって、疑いが解けます。「百聞は一見にしかず」と言いますが、本当かどうか疑念を持っていることも、自分の目で詳しく見て確かめるならば真実を確信することができます。
 注意を向ける思考と観察する思考は一組にして扱われることがあります。つまり、瞑想を始めるときには、マントラであれ、イメージであれ、あるいは呼吸であれ、何かの対象に心を向けて、その対象をよく把握して観察し、熟考する必要があるのです。一つのことに意識を集中することを凝念といったり、熟慮するといいますが、瞑想のスタートにおいては、こうした思考力をよく働かせて対象を明確に把握して、疑いが消え確信できるまで考え抜くことが大切なのです。
 それは概念的な思考ではなく、その対象をストレートにとらえて直感してゆく思考です。こうして瞑想を支える純粋な注意力と直感的観察力によって、眠気や不活発生と疑いとが消えてゆき、スッキリ溌剌として、自己信頼のもてる心が育ちます。

瞑想による解毒 その1

注意を向ける思考力(vitakka)

禅定とは、パーリ語(古代インドの口語)でJhanaの音訳です。もともと、焼き尽くすとか、熟慮するという意味があります。この禅定を支える心の働きに、注意を向ける思考力、観察する思考力、喜び、リラックス、一体感の5つがあります。仏教の瞑想心理学では、これらの5つの働きは、それぞれ、眠気や不活発性、疑い、怒り、後悔や落ち着かなさ、貪欲という心を曇らせる5つの作用を中和してくれることを教えています。
 今回は、まず最初の注意を向ける思考力(vitakka)について説明しましょう。瞑想するとき、まず対象に意識を向ける必要があります。マントラであれ、イメージであれ、呼吸であれ、その対象のことに心を向け、集中します。この意識を向ける働きを、思考作用の前半部分としてとらえます。すなわち、仏教瞑想では、思考を、対象に意識を向ける働きと、対象を詳しく観察する働きの2つに分けるのです。
 解説書では、それはミツバチが花を見つけてそこに着地して、蜜を吸うことにたとえられています。花を見つけて着地するまでが注意を向ける思考の働きに当たります。花に着地してから管を伸ばして蜜を吸うのが詳しく観察する思考です。ミツバチが、花に着地するまでは羽音が大きいけれど、蜜を吸いだすと動きが静かになります。つまり、心の働きとして、何かの対象に向かってゆく働きは大きなエネルギーを必要とするので、そのエネルギーに活性化されて、眠気や不活発性が中和され、抑うつ的な気分も晴れてくるわけです。これが、瞑想的な集中状態に入ることの第一のご利益です。

3種類の智慧

仏教瞑想では、智慧を3つのタイプに分けてとらえます

ひとつは、聞くことによる智慧(Suta-maya Nyana)
 物事のあり方や、心の持ち方、修行の進め方など
他者から聞いたり教えてもらって得た智慧のことです
情報化社会に生きる私たちは、インターネットや雑誌や書籍、テレビやラジオや講演会
イベントやワークショップなどを通して多くの情報を得ることができます

二つ目は、考えることによる智慧(Cinta-maya Nyana)
 得た情報について、自分の力で整理し、想像力を駆使して考え
さまざまな組み合わせの可能性を試し理論化しながら獲得してゆく
思考力による智慧です

三つ目は、修行による智慧(Bhavana-maya Nyana)
 実際に瞑想修行をして、あるいは日常の生活の中で実践してみて
体験的に獲得してゆく智慧のことです
あらゆることが無常であり無我であると頭の中ではわかっていても
日常生活の中で思い通りにならない現実に出会ったとき
そのときに湧き上がってくる不満や、不安や、イライラや、怒りなどをどのように見つめ
味わい、それらの感情的なエネルギーとどのように付き合い、使い
手放して行くかを通して
実際にものごとの無常や無我を体験的に理解し納得してゆくことができます
 ものごとが思い通りにいかなからこそ、助かることもあるのです
思い通りにいったひとときの有頂天のために、足元をすくわれることもあります
 思い通りにいっているときにも、思い通りに進まないときにも
無常であること無我であることを思い出して、自分の感情を大切に受けとめつつ
心を開いて、謙虚に、あきらめずに、試行錯誤を進めてゆける開かれた生き方の中に
体験的な智慧が獲得され、育まれてゆきます

 仏教瞑想で言う3つの智慧は
座禅などの特別な枠の中での瞑想修行に限られたものではなく
日常生活における行住坐臥のすべての中に生きてゆかれるべきものなのです

(パーリ経典のなかでブッダが説く無我とは
我があるかないかについての議論ではありません
私たちの存在が我の思い通りになるものか否かについての議論です
無我とは
我の思い通りにならない生老病死の現実的な苦しみを理解し、受容して
思い通りにならない現実を苦しみにしてしまう原因である衝動的な渇愛を見つめ
味わい尽くし
手放すことのできる智慧によって
思い通りにならない現実の中で
試行錯誤に心を開いて自在に生きてゆくしなやかさを開いてゆくことなのです
そのような心の静けさを涅槃と呼びます)


修行の3つのステップ

仏教では、戒・定・慧という3つのステップを踏んで
修行を進めます
これを3学とも呼びます

戒(Sila)とは、もともと生活習慣を意味する言葉です
自分の生活習慣を自覚し、
社会と調和して後悔が少なくなるような生活規範を身につけることを指します

一般的には
1.いのちを大切にすること
2.人のものを盗らないこと
3.性的関係において相手を尊重し大切にすること
4.嘘をつかないこと
5.依存や嗜癖のもとになる酒や麻薬などから離れること
がガイドラインとなります

戒の根本的意義は
心の安定を妨げる後悔を少なくする生活習慣を身につけることであり
これは自我の力を育む土台になります

定(Samadhi)とは、心の集中力や安定力を養うことです
瞑想で、ひとつの対象に繰り返し注意を向ける訓練をすることは
心を集中させ、安定させるための定の基本です
三昧とも音写されて呼ばれます

喜びや、リラックスや、忘我恍惚的な一体感を与えます
何かに没頭しているときには自然に集中しています
周囲のことが気にならず、時間を忘れます
瞑想では、呼吸やマントラなど、何かひとつの対象に
繰り返し注意を向け、集中力を養います

三昧によって集中し安定した心には
神通力と呼ばれる超能力的な働きを生み出す作用もありますが
これは直接悟りにはつながりません

悟りは、定によって得られた心の安定した集中力の土台の上に育まれた
智慧によってのみ得られます

慧(Pannya)とは、智慧の働き、洞察力のことです
真実をありのままに知ることです
般若と音写されて呼ばれているものです

仏教では
無常: ものごとは常に移り変わっていること
無我: 移り変わるものごとを自我の思い通りには支配できないこと
苦:   思い通りにならない現実は、自我にとって苦しみに映ること
の3つを究極的な真実であるとします

この3つの真実をありのままに洞察したとき
自我は囚われから解放され
しなやかや強さを獲得して
無常であり、無我であり、苦でである現象世界の中で
苦しみを受容し、乗り越えて
安らかな心で
ひとつひとつ目の前の現実に向かい合い
試行錯誤を続けながら
自在に生きてゆくことができるようになります

それが仏教で説かれる苦しみからの解脱であり、自由であり
本当の自分に出会って生きる道なのです

仏教瞑想はそのための心身の総合的なトレーニングツールなのです

瞑想とは

瞑想とは、ありのままに見つめる技
心と身体を総動員して
自分の中にあるもの
他人の中にあるもの
そして、自分と他人の間にあるもの
すべてをありのままに見つめ感じててゆく

ありのままに見つめる心は、自然に思いやりの心を開いてくれる

スピリチュアルケアとは、人生の危機にある人が
それを成長の機会として生き抜くことができるように
寄り添って支えること

与えることと受け取ることが循環して
お互いにいのちの光が耀きだす
そんな生き方ができるように、瞑想は人生を導いてくれる

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